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『監獄の誕生』を自己満足で噛み砕く《上》

 ミシェル・フーコーの著作である『監獄の誕生』を大学の卒業制作のヒントを得るため読んだ。学校の図書館で借りて黙々と読んだ。すごく長い上、難しかったので延滞に次ぐ延滞を繰り返してしまい、学校の図書館にはひどく迷惑をかけてしまった。なかなかこの手の書籍に手をだしてこなかったので、せっかくなので読みながら取ったメモを見ながら、完全に自己満足で内容を思い出せるよう、まとめてみた。誤字脱字あったらごめんなさいね。

 本著は、パノプティコンで有名な『監獄の誕生』。大まかな内容としては、「学校や病院など我々は知らない内に、この管理社会の中で、見えない監獄の中に属している。」という内容です。では、以下まとめ。本著は刑罰の歴史を遡るところから始まります。

1.身体による刑罰

 昔、非行を犯したものに与えられる刑罰は「身体刑」であった。死刑だけでなく、手足を切断させるもの、頭を蝋をかけられるもの、両手両足を馬に繋いで裂かせるものなど多種多様であった。これには、「罪人=国を乱す仇なした者」という考えが根本にあり、刑罰を一般公開することで君主の力を民衆に示すための「祭式本位」な考えがあった。この時、民衆には「お前らもこういうことしたらこんな酷い目にあうやでー」といった訴えかけだけでなく、公平な処刑が行われることを見守る「保証人」としての要素も担っていた。そして、民衆が「保証人」として存在することで、処刑人と罪人の中に「負けられない闘い」という決闘の構図が生まれた。身体刑は刑罰を行うことでなく、公平な場で処刑を行うことによる君主の権力誇示の場でもあったのである。


2. 表象による刑罰

 18世紀後半になると、人口と富の増加により社会の体制が変わったことで、犯罪の位置付けが変わってきた。今までのように刑罰を「身体刑」を行使することが残酷であると非難の声が上がり処罰の改革を行う必要が出てきた。そこで、様々な違法行為を厳密に記号体系化し、「身体刑」のような儀式的な要素を排除したのだ。処罰する権力が君主から更新され、新しい処罰の策が持ち込まれる必要がある。当時の人々は処罰を経済の中に組み込むことで解決を図った。君主からの報復という刑罰の形が「社会体」を傷つけるという刑罰へと変化したのだ。フーコーは処罰を経済に組み込むにあたって、求められる要素は5つあると述べる。

①罰は犯罪の利益よりも不利益が最小限勝ればいい
②「身体」ではキリがないので「表象」を利用しよう
③罪人本人ではなく、それを観る民衆に効果があればOK
④法を犯せば必ず罰せられる確実性が必要
⑤自白とかに頼らず証拠による真実が全て正しい
⑥犯罪と懲罰が分類され、「刑罰の個人化」が必要

この「刑罰の個人化」を契機として、一つ大きな認識の変化が生じてくる。それは以前、犯罪は「行為」であり、その行為の内容によって、刑罰が決まっていた。しかし、犯罪という行為ではなく、犯罪者という個人や生活・思考の様式といった性質に認識が変化したのだ。身体刑による罰ではなく、観念を制御することによる身体の隷属化に刑罰が向かうのである。今までのよう君主による「鎖」ではなく、人々の頭の中に「鎖」を作らなくちゃと処罰に対する考え方も変わったのだ。民衆にも刑罰の効果をもたらすようするため、罪人は社会全体に同じような犯罪の再発防止のための「広報活動の道具」として用いられた。これは、罪人に「公共土木事業」をさせることで、人々に罪人の生き様を見せ、「こうなったら終わりやわ」という意識を芽生えさせた。つまり「罪人のもつ表象」を用いて、社会全体に犯罪を防止させるようしたのである。これによって、刑罰は君主の力を示す「祭式本位」の必要性がなくなり、非常に効率が良くなったのだ。また、刑罰が「身体」という過激なものから「表象」という穏やかなものに変わったことで、犯罪は法を犯せば「自由」を剥奪されてしまい、「公共土木事業をする羽目になる」のだという考えを埋め込むことに成功した。「表象」による刑罰はこうして市民訓育にも力を与える刑罰として広まっていった。

3. 監禁による矯正

 また、一方でアメリカ・イギリスの古典主義時代に形成された「監禁」という考え方も広まっていた。刑期を司法ではなく行政が決定し、労働を義務化させ、時間割や監視によって規則性のある生活を過ごさせることで、「善へ導き、悪から遠ざける」ことを目指した。この「監禁」の特徴として「独居」が挙げられる。「監禁」において「独居」は労働に並ぶ矯正の必要条件であった。「独居」は被監禁者同士の脱出・共謀の防止だけでなく、自身の良心の底で善の声を再発見するための自己反省の術として捉えられた。また、ウォールナットストリート監獄では、刑罰を非公開にすることで市民に向こうで何が行われているのだろうかと考えさせることで犯罪の防止を試みた。つまり、監獄は「個人分化の1つの知全体が組織化される」知の装置として考えられるのであった。


身体刑が表象による刑罰へと移行したことにより、刑罰は犯罪の消滅というよりは犯罪の再発防止に力を注ぐようになった。市民に見られているという「表象」による矯正、拘束であり訓練でもある「監禁」による矯正である。しかし、身体刑含む三種類の刑罰の中で結局、現在でも採用されているのは、管理装置として訓練し、罪人を服従させ個人訓育させる「監禁」による矯正である。これは計画的拘束が自由を支配し、軍隊や兵士のように身体全体を服従させることが可能であるからだ。フーコーは「監禁」が現在も残ることについて、「監禁」による矯正は、罪人を資本主義社会を回す歯車生産機として再生産させることができる点だと述べる。君主による力でもなく規律・訓練による権力が罪人の心を支配して、道具化させることを可能にしたのだ。フーコーは罪人を道具化させる要素として次のものがあると挙げる。

①規律・訓練を行うにあたって、閉鎖された場所が必要
②身体の数だけ空間を小部分に分割し、そこに一つ一つの要素・身体を配置する 
 → 「独房」
③その空間が有意味な機能を果たすようにする
④規律・訓練を行うにあたって、「個人」を序列の最上に位置づけることが大事

非行を犯した人を管理・訓育させるのに必要なものとして「時間割」がある。時間を細分化し、管理することで、行為を規定することができるのだ。また他の人々と「時間割」を介し生活を送ることで、身体を規律に服従させ、「集団行動」による力を最大限発揮させることで、社会に利益がもたらせるのことができるのではないかと。



4. 訓育の手段

集団を訓育する上で求められるのがいかに効率よく囚人を矯正させるかである。フーコーは3つの要素が大事であると述べている。それは、監視、規格化、試験である。

①監視
これは規律を強制化させる効果を何よりももつ。しかし、欠点としては何より視線依存であるという点だ。これは、我々が昼間よりも深夜帯の方がハシャげるじゃんと考えるのと共通している。また何よりも監視という職務が発生してしまうという点で非常に効率的とは言えない。唯一の視線だけで何もかもをいつまでも見ることが可能である方法が理想形である。こうして生まれたのがかの有名な「一望監視装置(パノプティコン)」なのである。

②規格化
これは、罪人を組織として捉えることで、あいまいな領域で処罰が可能になった。わかりやすく例えるなら、宿題を忘れたら怒られる、遅刻したら怒られるといったようにある一定の水準を満たしていないと制裁が加えられるというものだ。これにより、罪人の行動・活動時間を規則正しくすることができるのである。

③試験
これは、2の「規格化」を可視化させる効果を持つ。日々の活動や生活を客観的に記録し、蓄積することができる。そして、この蓄積を分析することで「規格」を再編成することができるのである。


5.一望監視装置(パノプティコン)

 18世紀の功利主義者のベンサムが生み出した監獄システムである。円形の建物の中心に監視塔を置き、周囲に独房を配置する。中心からは全てが見え、周囲からは見られているという意識が内在化する。フーコーは権力を自動的なものにし、没個性化することが可能になった点で非常に重要な装置であると述べている。つまり権力を行使したり、監視する職務を常時発生させる必要がなくなったのだ。めちゃくちゃコスパがいいのだ。そしてフーコーはこのパノプティコンの構造が、社会や政治において「統率力」という面で応用できるのではないかと考えた。


 つまり発展を目指す社会の中でパノプティコンが非常にマッチするのだ。現在でも、テストのカンニングをしようと思っても、することはできても結局できなかったり、外出自粛と言われたら、法律で定まれているわけでもないのに自粛を守り通す様子に似ている。まさしく「見られているのではないか」という意識の内在化が生んでいるのである。フーコーはさらに、いかにして監獄の中の規律・訓練を外に出して、それを社会体全体のなかで、広く多様に多価値的に機能させうるかを占めることもまた重要であるとも述べている。


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