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『監獄の誕生』を自己満足で噛み砕く《下》

 ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』は後半部分が非常に難解である。そのため本当は《上》《下》とまとめて出すつもりだったが、文字数が多くなってきたからと理由をつけて分けての投稿になった。実を言うと本著は4部構成になっている。1身体刑2処罰3規律訓練4監獄の4部構成である。《上》の際に、この4部構成をしっかり強調しておけばよかったと今になって後悔している。それは、《下》では、4部目の監獄についてのみの内容記述になるからだ。《上》で3部まで書いてしまったのだ。なんとまぁ計画性のないことよ。しかし、この第4部こそ重要であり非常に難解なのである。自分で噛み砕いて納得することはできても、いざ文章化しようと思うと筆が止まる。もしかしたら内容が間違えて解釈していたり、分かり辛かったりするかもしれない。では、以下まとめ。誤字脱字あったらごめんなさいね。



1. 監禁の必要要素

 18世紀の人口増加、収益性の増大といった歴史的な変化によって、罪人をどう効率的に管理し、矯正するかを検討する必要があった。つまり、多くの人を管理する必要と、さらにそうした人の力を最大限効率的に活用して矯正へと結びつける必要が生じたのだ。規律・訓練による権力の統率は受刑者を客体化することが可能となり、ある方向をもった成果を見出すことができるという。その点で監獄は非常にマッチしていた。監獄による監禁は身体や社会体にダメージを負わせるという従来の刑罰とは異なり、「自由の剥奪」という概念が基礎に置かれる。閉じこめられた時間だけ、人は社会から隔離され自由を奪われ管理される。万人に共通であるという「時間」という尺度を刑罰の中に取り込むことで、刑罰の調整をより簡単にしたのである。

ここでフーコーは監禁において3つの要素が必要であると述べている。①孤立、②労働、③調整である。

①「孤立」
「孤立」は受刑者が集まり共謀や脱走の計画といった不都合を防ぐ働きがある。「孤立」には、それだけでなく矯正の手段としての側面もある。これは独居による自己反省を促すという側面である。フーコーは「孤立」は規律・訓練による権力の威力を最大化させるのに最適であると述べる。孤立状態こそが受刑者同士ではなく、そういった規律・訓練による権力との対話を確保するのである。

②「労働」
「労働」は、フーコーによれば受刑者の監禁本位の変容の一つの動因として定義される。「労働」により受刑者は規則正しい生活を送り、興奮状態や不注意を除き、資本主義社会の中での「労働の倫理」を刷り込まれるのである。「労働」による規則正しい生活が受刑者を無力化し服従させる効果を持つのである。これにより、受刑者を道具化させ社会に返すことができるのである。

③「調整」
「調整」は、監獄によって刑罰の軽重を調整できるということである。刑期が固定されてしまったら、規律・訓練による権力が無力化されてしまう。監獄内で真面目に過ごすメリットがなくなるからだ。しかし、監獄の中で「調整」という要素を組み込むことで、受刑者を規律に従わせることが可能になるのである。

2. 法律違反から非行の置換

フーコーは監獄が採用されるにあたって、人々にある考えの変化が生まれたと述べる。受刑者の全てが監視され管理されるようになったために、監獄が「知の装置」としての機能をもつようになった。監獄が受刑者の「知」を形成する矯正装置であるという点が、監獄を我々により脅威の存在であると認識させる。こうした「知」は、犯罪を行う者の「非行性」として知を蓄積し、「非行者」という個人を認識可能にする。そうすることで、個人は「法律違反者」としてではなく「非行者」として構成される。つまり、監獄に入ってしまえば、監獄に入ることの理由であった「法律違反」は曖昧になり、平等に「非行者」として認識されるのである。この意識の置換は、社会において大きな利点がある。それは法律違反だけでなく異常すらも「非行」に含ませることができる点である。中学生のうちから髪を染めて夜な夜な出歩いている少年を見て、人々は「将来ろくな大人にならない」「ああいう人が将来犯罪を犯す」などと法律を犯しているわけでもないのに異常を見るとそのように感じてしまうのは、この「法律違反」から「非行」へ考え方の転換が行われたからなのである。今までは法律違反を犯した者に刑罰が行われたが、「法律違反者」を「非行者」として監獄に収容し、加えてマスメディアが「非行性」を広めることで、社会全体に非行の知覚を植え付けることができ、結果的に人々が非行に走ることを減らすことに成功するのである。より社会に都合の良い道具を監獄は間接的にたくさん生み出すことができるのである。


3. 監獄の存在意義

ここまで聞くと、監獄はなんと完璧な装置なのであろうかと我々は思ってしまう。しかし、監獄の欠点・失敗は存在するとフーコーは述べる。監禁は市民教育としての「広報活動」としての役割を持たないので、実際の犯罪発生率が減少するわけではない。どんなに監獄を大きくできたとしても、犯罪ならびに犯罪者の数は変わらないか、ひどい場合は増加してしまう。なんなら監獄で過ごした方が社会の中で生きるよりはマシかなと感じ、再犯が発生する恐れもある。また、監獄での生活に嫌気がさし、より「非行性」を強めるかもしれない。では、そういった問題を孕みながら、現在でも刑罰として監獄による監禁が成立している所以は何なのであろう。
フーコーによれば、監獄が持つそうした欠点は監獄の存在意義に比べれば僅かなものだと述べる。監獄は社会の中でより大きな戦術的役割を果たしているのだと。それは、労働をしない者が排除される基準、何をしてしまうと監獄送りにされるといった境界の規範を明確に築くことで、人々はそうなってしまうのはまずいという意識を埋め込ませることができる点である。結果的に、より社会に利益をもたらそうと労働してしまうのである。そういった機能を社会にもたらすために監獄は存在しているというのである。


4. 監禁的なるもの

フーコーは「メトレーの少年施設」を、規律・訓練の最も強度な状態として例に挙げる。この施設では、家族モデル、軍隊モデル、仕事場モデル、学校モデル、裁判モデルという、5段階の規律・訓練が円状に重なり合い強大な威力を発揮している。このように監禁的な存在が特定の場所だけでなく、段階的に広がり繋がっていくことで「監禁連続体」を形成すると述べる。それらは法律違反だけでなく、不正や逸脱、異常をも非行性のように含み、最終的には施設が存在する必要もない。それは、社会の仕組みが規律・訓練として機能するからである。こうして、監禁の形式は緩和されつつ、社会全体に広げていった。監獄の欠点が複数存在するにも関わらず、現在まで維持されてきたことについてフーコーは、監獄は権力上のさまざまな装置や戦略の中にこんなにも埋まりこんでいるからこそ、監獄の変貌を望むような相手には一種の大きな慣性力で対抗できるのであると述べる。そうしたことで、我々は学校や病院、兵舎などの中だけでなく社会に出ていればどこでもいつでも見えない多数の「監獄」の中に囚われてしまっている。我々は複合的な権力関係の道具であり、多様な「監禁装置」によって絶対服従を強いられ、それに慣れてしまった身体であり、我々も社会という大きな監獄の中のたった1人の囚人なのである。つまり、現代の管理社会の基盤は18世紀にヨーロッパで作られた監獄のシステムなのである。

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