見出し画像

本を盾にしないで

 最近のモヤモヤをここで書きます。

 「昔から頭良くなりたいなら本を読め」と言う人を心の底から軽蔑しています。人生を生きていく上で必要なのは、「知識」よりは「知恵」だと思っています。というのも、活字を読んだ回数が多ければ多いほど、人生をうまくやりこなすことができるのであれば、そういうデータがあるのであれば、僕たちは学校にも行かされずに、ひたすら本の前に固定され続けていたはずだし、あんなに嫌味たらしく子供の僕に、本を強制的に読ませようとしなかったことでしょう。

 僕は何故か本をよく読む人と認知されることが様々な場面で多いと感じるのですが、別に何か知識が欲しいとか、真面目だからとか、賢くなりたいからとかで読んでるのではなく、偶然、読んでいただけに過ぎないのです。

 一旦、それを示すため僕の人生を少しだけ振り返させてください。

 僕は本を読むと言うよりは、まぁ昔から絵を見るのが好きで、小さな頃は絵本をペラペラと眺めたりしている幼少時代でした。色々と本の中に書かれている綺麗な絵に、枠の中にある世界に触れたくて、心の底からワクワクしたくてページをめくっていました。

 ゆっくりと月日が流れて、僕も絵本を読むことを卒業し、なんか絵が少なくて文字の多そうな本を手に取ることも増えました。元来落ち着きがなくて、静かに本をボーッと読むのに飽きちゃって、あんまり進みませんでした。

 その頃は、読書というよりは寧ろ、YouTubeやニコニコ動画に毒されていて、ひたすら親に隠れて動画を見続ける毎日だったと思います。

 中高の時には動画もですけど、ひたすら漫画を読んでいて、休みの日には必ず朝から晩までブックオフでひたすら完結した昔の漫画を読みまくるなんてことをしていました。

 多分、高校時代の3年間で、活字に触れた時間を圧縮したら1日にも満たないのだと思います。なんてたってセンター国語の現代文を音楽聴きながら解いていたような奴だったので。そのせいか、本番の国語の点数は目も当てれないようなものでした。

 大学に入ると時間ができました。まぁ別に本を読む!というよりは、ひたすら純粋に自分が好きと感じたモノたちの「濁流」に飲まれていきました。自由に、好きに、ストレスなく、時には依存して、ゆらゆらと、どっぷりと、飲まれていきました。

 高校の頃から聞いていて、大学1年からはリアタイしだしたオードリーのオールナイトニッポンが、当時の僕の依存先でした。僕はオードリーの若林の生き様を、自分と似ているなと勝手に重ねて、気付けば彼の書いたエッセイを手に取っていました。

 自分と同じ悩みを抱えた人間がこの世にいるんだ!とラジオを聴いて衝撃を受け、きっと何かに縋る思いで活字をなぞったのだと思います。何周も何周も読みました。

 その頃から、この世界には、もしかしたら僕と同じように考えている人が他にいるのかもしれない、と思うようになりました。そこからラジオをもっと聴いて、エッセイを読んで、人の考えていること、見えている世界にもっと触れたいと思うようになりました。やがて、自分にない考えに触れてみたいと興味の濁流がさらに押し寄せてきて、自分と違う考えの人のエッセイだったり、時にはエッセイではなくジャンルを飛び越えて本を読み、僕はまた溺れて、溺れに溺れて、今に至ります。

 つらつらと自分語りをしたのですけども、僕は何も賢くなりたいだとか、知識を得たいみたいな、一見高尚で、どこか低俗な理由で、本を読んでいたのではなく、ただ自分が自分であるために、自分が自分であることを確かめるために、その時たまたま「本」が必要だったんだと思います。


 今では当たり前のように時差を感じることもなく、物理的な距離を感じることもなく、容易に連絡が取れて、呑気にAmazonでポチった商品が当日中に届くような時代です。全てが便利になって、楽になって、グローバル化が進んでるなぁと日々体感できる時代です。そんな中、知識を得る媒体は書籍こそ至高と高らかに断言してしまう人を見ると、やっぱり僕は可笑しくて笑ってしまいます。

 別に知識を得たいから、本を読むという選択肢を選んだ純粋な感情を馬鹿にしているとかではなく、この世の数多ある媒体の中から、本がこの世で1番知識を得るためにふさわしくて、万人が知識を得るために読むべきで、本は知識を得るための唯一無二の道具であると唱える人を見ると心底から「バーカ!」と叫んでしまいます。

 こう言うことを言うと、恐らく、「例えばネットの情報を真偽が分からないが、その一方で、本は真実である保証が高い」とか言う人がいるのですが、僕はこういう人とは心から仲良くはできないなぁと思います。ホントばかり触れていて何のメリットがあるんでしょうか。寧ろ、真実と虚実をどちらとも触れ合い、自分の中でホントとウソの線引きを更新し続けることができる点において、現代の文明は過去の文明に勝ると、僕は思っています。本に書いてあることを信じて疑わず、筆者の意見を丸呑みにし、自分の考えがアップデートされた、知識が増えた、と曲解し、自己陶酔するよりはだいぶマシだと、とてもそう思います。

 ネットで知れる情報には、デマが多いのは一種事実ではあるとは思いますが、本で得られる情報を神格化して、本を読んでいる私は偉いと本を読むことが自己実現の目的化されている点に僕は違和感を覚えます。

 僕は、本を「筆者が考えている・考えたことをコンパクトに物体化させたもの」と認識しています。辞書とか六法全書とか例外はあるのですが、それは置いといて。多くの筆者が自分の思想、知見や世界を表現したものという印象です。

 最近、ある本を読むことが目的化していて、読むことの本質を見失ってる人が散見されるなぁと思うことが増えました。僕はこんなにも難しい本を読んだから偉いんだぞ!と威張りたいのでしょうか。本を読むことに偉いも何も無いと思います。筆者が必死に自分の考えを詰め込んで凝縮させた作品を、さも自分を奮い立たせる道具のように見せ、強要させてくる人を見ると血反吐が出ます。本は道具じゃなくて筆者の作品なんだよ、、、

 本を読むことを、自己実現の手段としか認識できなくなった可哀想な人間に、知見が云々と語られても鼻で笑っちゃいそうになりますね。

 本なんて純粋になんかおもろそうだから、暇だから、友達が面白いって言ってて気になったから、そんだけの理由で十分だと思います。

 別に、どんな本を読もうと、本を読まなかろうと、君は君であるし、君は今日も多くに触れて生きているはずだし、たまたまその本が必要だった人が手に取る。それだけでいいのだと思います。

 だから僕は、本を読んでいるから俺は偉いという人を信用していないし、本を全く読まないという人が本を読んでいる人を崇拝してたりする様を見ると悲しくなるし、自分を偉く見せるために難しい本を手に取る人を、心の底から軽蔑しているのかもしれません。

 小学校6年生の時に、朝の読書の時間で、隣の子が幼稚園生を対象に作られた絵本を読んでいました。クラスの男子が「なんでもっと字の書いてある本を読まないの?」って冷やかしていたら、その子は、凛と、「今改めて読むと違う見方ができて面白いよ」と答えていました。僕は、その隣の席の女の子を、冷やかしていた男子たちよりも大人だなぁと、とても思いました。

 「頭を良くしたいなら本を読め」、「思考力を手に入れたいなら本を読め」、「他人より秀でたいなら本を読め」。いい加減うんざりです。とても。本当に、本当に、本当に、そういうことを言う人は、小学生の頃に純粋にワクワクして絵本を読み漁ったりするあの頃の純粋な本に対する気持ちを思い返してほしいものです

 僕も初心に帰りますから。

 僕が買ったのは「バムとケロのにちようび」
個人的にとても好きなんです。

 明日には届くと思うと、やっぱり僕のいる世界の文明は素晴らしいですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?