占いが当たる理由。それは◯◯が関係しているからだった…

当たるも八卦、当たらぬも八卦。

占いの結果に一喜一憂して、占い依存の深みにはまっていませんか?

恋愛の占いに溺れてもがき苦しむ乙女たちの間では、占いジプシーと呼ばれている。

かく言うわたしも占いジプシーである………

昔、占いして貰いに行き数年後の未来が当てられた経験がある。

これは本当に驚いた。未来の親友の人物像をばっちり当てられたのである。

なぜこうも当たるのか。ほんとうに不思議でならない。

だが、今日はその答えが得られたので共有していこうと思う。

なぜ占い師は未来が分かるのだろう…?


人間の第六感的な何かが関係しているかもしれないが、

数年後の未来が分かるというのは、さすがに常軌を逸している。

凡人には不可能である。

夢やデジャブで直近の未来が視えた、なんてことはあるかもしれない。

というか、それは私も過去にあった。
虫の知らせとも言うべきか…。

だが、数年後の未来は分かるはずもない。
でも、当たると評判の占い師はばっちり当たる。

それは何故か。答えを先に言ってしまえば、これは「使い魔」が占い師に教えているからなのだ。

わたしはたまに啓示のようなものを受け取る事があり、これはその内容である。

「えっ、神様が占い師を通して未来を教えてるんじゃないの?なんで悪魔?」

神様が人間の未来を教えることは、本当に必要でない限り教えることはない。

神様に聞いても教えてはくれないが、悪魔は教えてくれる。

そのワケを人生ゲームに例えて話していこう。


人間の人生は「人生ゲーム」に例えると分かりやすい。


人生ゲームは緻密なゲームだが、人間の一生はもっと緻密で複雑で絡み合っている。

この3次元の世界は、実に緻密に計算され尽くされた上で美しさをもってして存在している。

空気中には酸素の他に、情報が飛び交っている。

情報とはつまり電波だが、電波とは電子のであり、電子が情報として形を成すのは数字があるからだ。

光と数字は、実に密接に関係している。

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。
すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

創世記1:3

一方、人間は原子の塊だ。

原子は規則性と法則をもってして配列し、その配列もまた数字があるからこそ規則性を持って存在する。

しかし、人間は肉体だけではなく、霊体も宿した生き物だ。

霊体は何をもってして存在するか。

それは言葉である。

初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。

ヨハネによる福音書

霊体である神もまた、言葉をもってして、人々に天にある叡智を授けている。

もっとも、神が人に音で直接語りかけることはなく「霊感」頼りにはなってしまうが…。

言葉で型取られる霊体、これはただ神秘としか言いようがない。

霊体も、肉体も、地球も、宇宙も、すべて緻密だが、緻密になればそれだけ規則性が生まれることになり、その規則性が絡み合い起こる現象を人々は運命と呼んでいる。


運命はすなわち、人生ゲームにおけるマスに書かれていることだ。


人生ゲームには最良のマスも、最悪のマスも用意されている。

どのマスに止まるか否かは、全てサイコロで決まる。8割がた運次第といえる。

人生もまた然り、宝くじに当たる可能性も、事故にあう可能性も、日常的に潜んでいる。

日々、取捨選択して自分で運命を切り開いて生きているようで、その実、ある程度は運命が決められており、与えられた選択肢から選び取って生きている。

ひとりひとり、千差万別の人生ゲームのマスが用意されていると言えばイメージしやすい。

容姿、知能、性格、生まれた環境、親や周囲の人々、宗教、思想、資産、社会の動き、価値観、これらの要素で生まれてから死ぬまでのマスはおおよそ決まる。

神や悪魔は次元の異なる世界線で存在し、この先起こる未来や、その人に起こる可能性のある未来が視えている。

神はそのマスのひとつひとつ教えることはしない。

神の願いとはもちろん、人々が最良の道を歩むことだが、目的ではない。

人生とは時に残酷で冷たい。

しかし神は山も谷も、神を信じる気持ちで乗り越えて一皮剥けた人になってほしいのである。

「神は愛である」

聖書はその一言に要約されるが、これこそが神の目的だ。

神の目的とは、神のように愛のある人間になってほしいということと、神と愛し愛される関係を築くことにあるのだ。

果たして、人間に未来を教えることで、愛の関係を築くことができるだろうか。

未来を教えたところで、愛は深まらない。

愛がどんなものであるか悟ることもできない。

だから、神を信じ愛して生きたとしても、数年後、数十年後の未来を視ることは叶わないのである。

だが、神の愛を手に入れることは、言い換えれば運を手に入れることでもある。

神の愛は、最強の運だ。

それは例えるなら、サイコロの目が人生の最良の道を示すようになるということだ。

ただの白のサイコロが、光り輝く黄金のサイコロになるのである。

しかし、運を手に入れれば、1億円がポンと入ってくることではない。

大金があれば幸せだなどと、そんな浅はかな考えを抱いているなら、まずは本当の幸せがなんなのか知るための道のりを歩むことになるだろう。

まずは、考えを改めるための道標が与えられるはずだ。

神と人も考えや価値観を合わせて、はじめて愛が築かれる。

人同士が「あの人とは波長が合わない」と感じあうのと同じだ。

波長とはつまり、考えであり言葉だ。

死んだ後に残るものはただひとつ、その人自身が持つ言葉のみ。

肉体が滅び、金も意味を成さず、霊体になったときに人生の生きる意味を考えても虚しい。

この世の楽しみを神は奪ったりはしない。むしろどこまでも与えたい。お金も美味しいものも美しものも全てなにもかも与えたい。人間が楽しめるようこの世界を創造したのだから、当たり前だ。

しかし、そのためには持っている考えが神に近いものでなければ本当の意味で喜びや楽しみを享受することはできない。

どんな考えを持って生きるか、これは本当に人生を左右する。特に、死んだ後の人生を左右する。

神とは、どこまでも人間の考えを清める存在なのである。

一方で、悪魔は考えを汚す存在だ。

考えを汚すことが、霊体を汚すこと。霊体を汚せば神には近づけない。

サイコパスな愛とは程遠い存在の悪魔の目的は、人間と神を引き離すことにある。

ここでまた人生ゲームに例えて考えると、

白いサイコロは、漆黒のサイコロに変えることもできる。

漆黒のサイコロは、名前とは裏腹に名誉や権限、大金を得られる道に導いてくれる。

悪魔に波長を合わせるならば、その漆黒のサイコロはより確実に現世の高みに導くことだろう。

それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」

ルカによる福音書4:5:8

マジシャンなんかも、あれは悪魔が3次元的に関与して奇跡を起こしているのだと思う。

ふらっと寄った看板からハンバーガーを取り出すところを見たことがあるが、あんなのは人間がなせる技じゃない。

悪魔に魂を売り渡すなら、予言も余裕だ。

はっきりいって、占い師は離婚している人が多いし、占い師に依存して占い通りに生きて人生がめちゃくちゃになっている人も知っている。(田舎なので近所で噂になっている)

悪魔が願っているのは、人間の幸せではない。

与えて、与えて、最後にどんでん返しを喰らわせて嘲笑うのが楽しいだけだ。


どでかい不幸も、ちっさな不幸も、悪魔の暇つぶしになる。

波長の合う占い師を見つけたら、耳元で占いの答えを囁き、人間を弄んでいるとしか思えない。

悪魔の得意なことは、人間の依存心と弱みに漬け込むことだ。

言わずもがな、占いは人間の依存心を利用したツール。

悪魔の肴にだけはなりたくないものだ…。



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