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誰かの目に触れることは、誰かの無意識の感受性に意思を委ねる、ということなのかもしれない。

何から書けばいいものか。
頭の中で完結した一連の思考をnoteにしようと思い急いでmacを開いたものの、考える。
いや、今は突発的な頭の動きをわかり易く順序立てて残そうとすることに注力すべきではない。


ちっぽけでどうしようもない脳みそで、必死になって考えて生きている。
大学に入ってからその一部を文章化して残す作業を、ナカシマという存在に出会ってから本格的に(と言える程大層なものではないが)始めた。
その作業は多少なりとも学生としての成長に役立っていると思うが、ふと自分が今書き終えた文字列を読み返すとそれは自分以外の誰かが書いたような装いでいる。

そしてその文章たちはもれなく誰かの目に触れる場所に置いている。

自分が書いた文を誰かに読んでもらうなんて、卒業文集か課題の感想文くらいだと思っていた。し、今も思っている。
このように文章を人に見せることへのハードルは依然高いままなのだが、twitterをはじめ、noteやinstagramでも日々文字列をせっせと公開している。
それはただの愚痴や気分、なんとなくのぼやきではなく、何か衝動に駆られている。気がする。

その衝動は承認欲求であり、自慰行為と同じだ
自分の言葉を誰かに褒めてもらいたいだけだろう
認めてもらって気持ちよくなりたいだけだ

と、頭に住まう、私を貶したがる私が気持ち悪いものを見る目で吐き捨てる。
シン・エヴァンゲリオンをみた友人が「これは庵野監督の自慰行為だ」と呟いたのを思い出す。実際それが的を射ているのかどうかは、どうでもいい。

この流れで書くと言い訳に見えるが、実際は書いたものが人の目に触れることで落ち着くから、という感覚的ではあるがそれまでの理由でSNSに載せている。だが、私を貶す私のように、それをみた誰かがどう思うかは載せる私自身にも操作できない。

誰かの目に触れることは、誰かの無意識の感受性に意思を委ねる、ということなのかもしれない。
その時に起きる何か、感動や憤り、寂しさ侘しさを、私は期待しているのかもしれない。

このことに大きな意味があり、価値があるのだと思う。
偏見のある人でも、広い視野を持つ人でも、誰かの瞳に映って神経を通過して電子信号が脳で処理されることに。

私自身に承認欲求がないわけではないし、誰かに褒めてもらえたら嬉しい気持ちになるけれど、それを目的として何かnoteを書いたことはない。という自認がある(で、出たーー!!!)。

また、noteをはじめとするSNSアカウントに何か意味を持たせていたり思想があったりするわけではないけれど。
誰かの目に触れて、その人の人生のどこかに関連づいて、何かが生まれることを信じたい。
読んでくれる誰かに頼りきっているのはしょうがない。
それでも誰かに読まれて、意味を持たされることを私は望んでいるのだか
ら。


浸かっていても温まらないし出たら出たで寒くなりそうな湯船で考えていたことが表せた。よかった。

言葉に雁字搦めになった昨日の自分が少し救われる。

小一時間前、macを開くのと同時に、透明な氷がエナジードリンクを受けて白く濁り、染められるがままに再び透明に還っていった。
今日も飲みかけのエナジードリンクと共に、美しく、素晴らしい朝陽を迎える。

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