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この世は私の五感でできている

グーグルアースで漆黒の宇宙空間に
浮かぶ地球を見て、地上に降りてゆき、
大陸から知っている国々に思いを馳せて
アジア、日本列島、関東、東京、練馬
そして最後には自宅を見つけて
ストリートビューを見る。
ベランダに布団が干してある。
門の表札まで読める。
宇宙から表札までひと続きであるという
現実がとても不思議だ。
 
新しいボールペンを買ってきて、
書き味を試すためにメモ紙に
たて線、ヨコ線を引いて、グルグルと円の
連続模様を描き、
そして最後には自分の名前を書いて落ち着く。
いつでも最後には自分の存在に気持ちが収束する。
 
お釈迦様が産まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と唱えた。
この世に存在するのは尊い我一人であると解釈してみたい。

自分、私、僕・・色々な一人称を日常、使い倒しているが、
先哲から未だに辿り着けない難解な問いが
「自分とは何か」である。
自分って、日常に流されていると意識にも昇らない。
そこで、自分探しの旅に出る。
旅先で起こる場面、場面で自分がどう対処し、
苦楽の感情を俯瞰し意外な自分の姿に触れ、
心の反応を知るための修業のことのようだ。
 
ドリカムの「決戦の金曜日」という曲の一節が引っかかる。
「あなたといる時の自分が一番好き」。
あなたが好きと言わず、あなたが醸し出す空間こそが
自分は自由で心地よい、という。
究極の自己愛かと思ったが、わがままな意味合いはないようだ。
単に「あなたが好き」という陳腐を脚色したようだが、
実は意味が深い。
 
自分がすべてであり、自分が好きなもの、嫌いなもの、
解る事、解らない事もそれを基準にして良いということである。

絵画が解らない、小説が解らないというが、
作品が評価され賞を受け、権威を得て、
金銭的な価値を与えられた「物や事」なんか
横目で見る程度で丁度いい。
 
あくまでも自分がどう感じるかが
この世ではすべてとしよう。

ひょっとすると、この世には自分しか存在する
実態はないのかもしれない。
だって、この世は自分の五感から寸分も
這い出すことはないからだ。

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