川の流れのように
過日、葬儀に参列した時の事、僧侶がいくつかのお経を唱える間に、
「ゆく川の流れは絶えずして しかも もとの水にあらず・・・」と鴨長明の方丈記を朗々と吟じました。
方丈記は人の命の儚さを水の泡に譬えています。
逝く故人へのはなむけと同時に、今生きて参列している人々に向けての
心構えを諭したようです。
日本人の死生観を考える時、この方丈記と兼好法師の徒然草が
思い浮かびます。
「つれづれなるままに 日暮らし 硯(すずり)に向かひて
心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書きつくれば
あやしうこそ ものぐるほしけれ」
一人硯に向かって、心に浮かんでくることを取りとめもなく書いていると
妙な気分になるものだと云い、第74段では、日常の些事にかまけて、
生きることの意味を知ろうとしない者は、いよいよ死期が迫ると
悲しみ恐れる。
それはこの世が永久不変であると思い込んでいるからで、
万物は流転変化するという無常を実感できないからであると
諸行無常を説きます。
世に三大随筆ありと云います。方丈記、徒然草そして枕草子で
清少納言は「ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟 人の齢 春 夏 秋 冬」
と淡々と無常観を表しています。
諸行無常と云えば、平家物語の冒頭の下りは有名です。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし たけき者も遂にはほろびぬ
ひとへに風の前の塵に同じ」
と人というものは、風に吹き飛ばされる
埃(ホコリ)のような存在だと喝破しています。
さて、時代は700年下って、志賀直哉の小説「暗夜行路」の終章で
鳥取県の大山の山中で一夜を過ごし不思議な感覚に浸った事を
綴っています。
「自分の精神も肉体も、今、この大自然の中に溶け込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く。
それに還元される感じが言葉に表現出来ない程の快さであった。
彼は今、自分が一歩永遠に通じる路に踏み出したというような事を考えた」と著述しています。
日本人の根底にあるのは前述の無常観とこの暗夜行路の中に
表された大自然の前で我が微々たる存在、そしてその大自然に抱かれ、
溶け込むように一体化する感覚に憧れるものと思われます。
母のような優しい自然とは裏腹に、日本は災害の多発する国でも
あります。荒れ狂う自然災害に対しても、謙虚に自らの至らなさと
関連付けて粛々と復興に精出してきました。
昨日まで住んでいた家が破壊されても、前よりいい家を建てれば
いいじゃないかと気持ちを強くもって生きてきました。
すべからく同じ時はなく、一瞬一瞬、新しい時がやってきています。
自然の恵みに感謝して、子々孫々が豊かに暮らせる環境をつくり
伝えてゆけばそれでいいんだなあと落ち着けます。
このところの海外の物騒なニュースに接して分かることは、
一神教の頑なさがお互いを破壊し合い、不幸の連鎖となっている
ということで、つくづく日本人の死生観、宗教観の寛容さが
有り難いと思います
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