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ことばについて①【発見】(田崎)

言葉を喋ることに対して「妥協」という言葉が浮かぶ。
言葉という記号に置き換えていく作業。
置き換えられなかったものたちが記号の強さによって形を変えていく、無かったことになっていく気がする。
大事なものをとりこぼしていく、私が擦り減っていく、そんな感覚。


このことをこんな風に断定するのもこわいけれど、話を進めるのに一旦言葉にしておこうと思う。

演技をするときは大抵台本がある。
言葉を与えられるのは楽だなと思っていた。
喋りたい気持ちはある。
自分をすり減らす作業をせずに言葉を喋れて嬉しいなと思っていた。
言葉にならないことを言葉にするより、与えられた言葉に言葉にならない状態でいるほうがずっと楽だと思っていた。自分に優しい感じもした。

2018年、RoMT Acting Lab.で『ギャンブラーのための終活入門』という2時間弱の一人芝居をやった。
この頃は演じることに抵抗が強かった。
演技が上手くなっていくことは自分自身が記号的になっていくような感覚があった。
昔から何かができるようになっていくことに寂しさみたいなものがあって、同じ間違いを繰り返すとホッとすることがある。
だけど演じたい気持ちはあった。
2時間弱一人で喋り続けたらなにか見つかるかもしれないと思って『ギャンブラー〜』のオーディションを受け、やることになった。

終わってから、青年団の太田宏さんに言葉について感じてることを話したら、「もっと言葉に絶望するといい」と言われた。
そうしたらもっと芝居が豊かになるという意味で言ったのだと思う。

「もっと言葉に絶望するといい」

とても重要なことな気がした。


12月15-19日に『さよならあかるい尾骶骨』の稽古をした。(2022.1.28-本番@京都芸術センター)
稽古で、「台詞をテキストに書かれている言葉として喋る」というのをやってみた。
どういう感じか分からないまま最初の10Pくらいそれを意識してやってみた。

面白いことが起きた。
「なんか今のすごく面白かった」という感想がわいた。演出のミカさんにもう一回やりたいと言って、それから何度かやった。
シーンが形容できない空気になった。質量はある。豊かな気がする。

やっている私に起きたのは「テキストとして喋る」を意識すると体が動かない。でも内側はとても動いていて、そこから溢れた動きがある。言葉の意味に直結した説明的な動きが全くなくなった。あとすごく疲れる。

言葉と私が切り離されている。私の体はあって、状態はあって、声を出しているのは私だけど、言葉の輪郭はとても遠い。
生きてるなかでの言葉との距離感に近いと思った。とてもしっくりくるものがあった。
私の言葉じゃないけれど、私はこれ(与えられている言葉)を言わざるをえない。

普段、私は言葉に喋らされている。
その中には喜びもたくさんあると思う。
だけどくるしいこともある。
生きててやりづらいなぁと思っていたことが何かの役に立つかもしれないとなったときとても嬉しい。好きなことの役に立つならなおさら。

まだまだ発見途中で、もっと面白いことがでてくると思う。いろいろ実験してみたい。

言葉とどう向き合っていくのかというテーマは多分ずっとなくならないと思う。演劇をしなくなっても生きてるかぎり葛藤し続けると思う。
でもその葛藤でたのしめることがありそう。

2021.12.28

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