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長井市と南陽市(山形) e-bikeで廃村、廃寺、廃キャンプ場を巡る廃なポタ

はじめに

さきに長井周辺をポタリングした際に訪れた伊佐沢地区。
交差点にある標識には大石という集落が記されていた。

しかしGoogleマップで見ると大石という地名は見当たらない。付近には洞雲寺跡という謎の史跡が記されているのみだ。
不思議に思って手もとの昭文社県別マップルを見てみる。2010年版の古いやつだ。そこには上下ふたつの大石集落に加え、杢ノ沢、須刈田というGoogleマップに記載されていない集落名も書かれている。洞雲寺も「跡」が付いていない。当時は現住の集落だったのだろうか。

2010年版マップル

さらには大峠と小峠という旧道らしきルートも記されてある。その大峠を含む区間は白鷹町と長井を結ぶはずの県道の未通区間であることをわたしは以前から知っていた。
そして移転前の山形工科短大だ。なぜこんな隔絶された場所に学校があるのか(移転後も従来のものは大石校舎として引き続き使用するとある)。

この秘境エリアに点在するさまざまの謎をこの機に解明したいと考えたわたしは、前回のポタリングから間もないある日、再び長井の伊佐沢にやってきたのであった。

山深い道であり、相応のアップダウンが予想された。今回は久々に秘蔵のe-bike、BESVのFSA1を出動させる。

大石まで

上伊佐沢集落から走り出す。まことに絵になる農村風景から道は山中に分け入っていく。

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集落の果てを過ぎるとほどなく道幅が狭くなり、渓流沿いの森の中に入っていく。普段の生活の半分を山荘で過ごしているのでちょっとやそっとの森や渓流では心が動かないわたしでもこれはなかなかと思うぐらいの森閑ポイントの高さである。

あたりはそこはかとなく心地よい木の芳香が立ち込めている。フィトンチッドというやつだろうか(知らんけど)。脳内にα波が優位になり、自律神経が安定し、血圧が下がる、気がする。

けっこうな斜度の登りが続き、脚で漕ぐんならちょっと勘弁してほしいぐらいのものだったが、電アシなのでまったく余裕である。

この辺りですでに充分秘境と呼ぶにふさわしく、人家はもとより人の営みを思わせるものは何もない道が続いていくが、電柱と電線は道沿いに続いていく。この奥に電力の重要がある(あった)ことを窺わせるものだ。
道幅はいよいよ狭くクルマは対向困難だ。

下大石集落跡

標識通りに約5km、唐突になにやら標語のような看板が。
もとはもっと数が付いていて意味をなしていたのだろうが、今のこるは2枚だけ。

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「飛」「故(逆さま)」、裏面には「出(逆さま)」「で」の字が残っている。林業関係者のためのものかと思ったが、そこがかつての集落の入り口のようだった。判じ物のようだが逆さの字は裏返ったものとすると、伊佐沢側から入ってくるクルマに「飛出注意」集落から出て行くクルマに「無事故で」と訴える看板であったと推理した。
ここが下大石集落だった。

その奥には石碑が。

新道開鑿碑とある。
判読できる限りでは、大石地区は不便だったが車馬の通れる道路を通して便利になってめでたい、という内容だ。明治42年(1909)の銘。

そのさきの沿道にも立派な石垣の上に作られた住居跡がある。数軒の廃屋も残存していた。

廃寺・洞雲寺跡とその周辺

集落を過ぎて間もなく、洞雲寺跡への道が岐れる。
廃寺がどのようなものか、見てみたいので行ってみる。

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すさまじい斜度の小径が境内へと導く。

木立が開けるとそこに廃寺跡があった。草むした境内に残る遺構は鐘楼も備えた山門のみ。

創立は古い寺だが、山門は1973年に作られた比較的新しいものだ。

鐘楼に登ってみる
昭和に再建された際の出資者名簿や写真が飾られている。

境内の裏手には巨大な石が鎮座する。集落の名の由来でもある。

気が付かなかったが裏側にハシゴがあって上に登れたらしい
大石から境内を望む

寺の麓には小さな神社もあり、。その奥の斜面にはさらなる集落跡があった。ここにも石垣を築いて作られた住居が残っている。

崩壊も間近ぽい廃屋
道はさらに奥まで続いていた

のちに昭和45年国土地理院地図で調べたところ、先ほどの標語看板の地点からここ洞雲寺周辺までの一帯を併せて丸ごと下大石集落だったことがわかった。けっこうな規模の集落である。

廃寺を後にして先に進む。

杢の沢から須刈田

長井方面に向かう古道(グーグルカーも諦める極狭ダート)が岐れる追分石。

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石塔の六面に(六面幢)菩薩像が彫られた六面幢=現世のカルマポイント数に応じて輪廻で配属される六道それぞれを担当する菩薩を掘ったものだ。来世はどこ道に行かされるかわからないのでとりあえず六道の担当菩薩全員を拝んでおき、次もなるべく人間道以上にしてもらおうというオールインクルーシブ仏塔だ。

しかしここの仏像は全て顔が削られていた。明治の廃仏毀釈のあおりだろうか。やった奴は畜生道にダウングレードさせられたと思われる。

周りの石碑の内容は読めなかったが、享保元年(1716)の年号が読み取れる。

その先、長井市内から登ってきた林道とのT字路に行き当たる。
旧山形工科短大跡はここから長井方面の道を進んだところにあるのだったが失念した。よって同短大の位置確認は果たせなかったのである。
このT字路付近にも草に埋もれて数軒の廃屋があるようだったが、ここが上大石集落跡だった。

川沿いの道から山越えの林道へと進む。
ここから登りはますます斜度を増し、高度を上げていく。

この辺りが最高地点のようだった。眺望は無い。

ふたたび三叉路に行き当たった。岐れるのは南陽市萩に至る14kmの林道(山形へのエクストリーム近道)だ。
そこが杢の沢集落だった。現存する人家がある。
ゴミ集積所もあり、居住者もいるようだ。(あとでGoogleマップを見たところ、一軒の建物は「山形工科短大第2実習棟」の記載あり)

5. かつての学校とおぼしき建物
住居跡には杉が植えられていた

かと思えば山小屋風の新めの建物もある。地区の集会所、あるいは通いで耕作する人らの拠点だろうか。

小さなアップダウンを繰り返しながら道幅はますます狭くなる。
不意に視界が開けると別の集落が現れた。ここが須刈田だ。

廃校の建物も残っていた。

須刈田と大野沢キャンプ場跡

当初この先にある大野平キャンプ場跡に立ち寄るつもりはなかったのだが、途中の三叉路で進む道を間違えた。たどり着いた先が大野平だった。
そこは広大なプラトーだった。その一角がキャンプ場だったらしい。入り口に立入禁止のロープが張られておりその先は草に埋もれている。どのくらい奥までがキャンプ場だったのか今はわからない。
そもそも付近に登山に供するような山もないのになぜここにキャンプ場があったのか謎だ。

6  炊事場とトイレだろうか

かつて縄文時代にこの一帯に集落があったという石碑が立っている。古代の住宅地である。

狩猟採集時代の3000年間の歴史あるオールドタウンだった

須刈田からここまでの間には広大な耕作放棄地が広がる。
見渡す限り人工物のない景色に縄文時代の風景を幻視した。

間違えた三叉路まで戻り、正しい道を下っていく。次第に道幅が広くなり、視界も開けていく。

やがてふたたび平地の集落に出た。ほんの2時間あまりしか経ってないのにひさびさに文明に再会したような気がする。

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伊佐沢に戻る道

ここから東にあたる熊野大社とその門前町・宮内も久々に訪ねてみたいところだが、またの機会にして今日は西へ向かう。

フラワー長井線の線路に平行する道を辿っていく。

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10年以上前に初めてクルマで伊佐沢を通ったときは、なんと詩的で美しい農村風景だと感銘を受けたものだ。
その後幾度となく自転車やクルマで訪れているが、そのたびに古い家が建て替えられて、都市郊外の建売のような今風の家に変わっていくのを見るたび残念に思う。もちろんそんなのは都市部でぬくぬくと暮らす余所者の身勝手な感傷であって、住んでる人からしたら、ならお前古い家でここの冬過ごしてみろ、雪下ろしもしてみろ、と言いたいだろう。
農村の景観などというものは、住んでる人からすれば手間とカネをかけて保全する価値はないし、できれば郊外のニュータウンと同じになってイオンも出来て欲しいと思っているだろう。

今後の日本の農村風景は、人が住まなくなれば今日通った大石のように廃村化するか、人が世代を改めて住み続けるならば小綺麗な四角い家ばかりになるかのいずれしかないのだろう。古いものが残っているうちに各地の小邑を訪れて眼と画像に焼き付けておこう、そう思う吉宗であった。

補遺あれこれ

あとでいろいろ調べてみたところ、あらたな知見をいくつか得た。
大石はかつての街道筋にあり、交通の要衝として栄えていたのだった。
宿まであって戸数60というのはこんな山奥にしてはたいしたものだ。

明治以前、米沢から荒砥へ向かう道を中街道といいました。米沢→大塚→下伊佐沢→岩穴→大峠 →杉沢→荒砥の経路です。大石はその街道があり、交通の要衝で、茶店や宿屋もあり、60世帯が暮らしていました。(中略)二つの峠は今、やぶ道になっていますが、その近くを置賜東部線道路が通っています。

ながいの歴史/ 長井市

その中街道の名残り、大石から白鷹に抜ける(はずの)県道3号の不通区間を、かの廃道研究家ヨッキれん氏が徒歩で踏破していた。
近代以前の古道が、役所的には今も(いちおう)県道扱いのままになっているという驚き。
氏はこのとき長井市側から登ってきて訪れた上大石集落跡はわたしは通っていない。三叉路から長井市側に少し入ったところにあったようだ。
また、今回立ち寄った大野平キャンプ場はこのときまだ開設中で、車中泊している。

須刈田、杢の沢に加えて周辺の廃村いくつかをも探索した、廃村研究家の記事も見つけた。すごい労作である。



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