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 伊藤礼氏追悼〜「自転車ぎこぎこ」「こぐこぐ自転車」「大東京ぐるぐる自転車」

折しもこの文章を書きかけだったさなかに、伊藤礼氏の訃報を知った。享年90歳。
翻訳家 / エッセイストとしての著作のなかでも、3冊の自転車エッセーは思わずぐふふふと笑ってしまうエレガントなおかしみに満ちていて何度も熟読吟味した。
洒脱で風雅な文章に魅せられたわたしは、この人の自転車ネタ以外のエッセイ集、父伊藤整の伝記本、果ては翻訳を手がけた英国の小説まで入手して読み漁ったほどである。

著作に書かれていた旅のほかにも日本各地をツーリングしていたようで、ならばもっと旅本を書いてほしかったと悔やまれてならない。
ご冥福をお祈り致します。

伊藤礼「自転車ぎこぎこ」「こぐこぐ自転車」「大東京ぐるぐる自転車」

伊藤礼は1933生の英文学者、翻訳家。かの詩人伊藤整の次男である。
元来、若い頃からの持病もあって体力に乏しい自称「虚弱老人」であった。しかし大学教授在任中68歳のある日、思い立って手持ちのママチャリで勤務先に向かってみた。その結果は疲労困憊、這々の体で辿り着き、「大学の守衛のおじさんに「どうなかさいましたか」と駆け寄られる」有様だったといいう。
しかしそれを機に思うところあってかロードバイクを購入。
5km、10kmと乗り始めるうちに距離を伸ばし、体力と筋力を次第に増強していく。
その結果、ロングツーリングにも出かけて一日80km以上平気で走るスーパーストロングフィットネス高齢者に変貌を遂げるのだった。
そこまでの経緯が記されているのが「自転車ぎこぎこ」だ。

続編「こぐこぐ自転車」ではさらに、Giant MR4(わたしもかつて乗っていたがいい自転車だ)からDahonヘリオスといった折りたたみ自転車、街乗り用のクラインMTBなど、じわじわ増車しながら幅を広げていく自転車生活が語られる。

さらなる続編「大東京ぐるぐる自転車」は81歳での上梓。都内のポタリングの話。
体力成分控えめな分、随所に折り込まれた歴史や文学の深い造詣には唸らされるものがある。

翻訳家の書く日本語というのはなべて流麗かつ洒脱だ。この人の文章も、わざと冗漫で古くさいレトリックを操り真面目ぶっていると見せかけて、練り込まれた諧謔味がじわじわと笑いのツボを押すという高度な笑かし技をあやつる。なおかつ随所に学者ならではの高い教養と知性が見え隠れする匠の技はさすがである。
その文体は内田百閒に通じるものがあるし、おそらく影響を受けているだろう。(そういえば百閒先生もドイツ語の先生だ)
百閒の師といえば夏目漱石。遡ればこの人の文章に漂うおかしみもまた漱石の随筆に源流を見出す気がする。

それでもやはり高齢者であるから、年齢から来る身体諸器官の不具合は避けられない。
まず初期においては何度も派手な落車を体験し、骨折までする。ヘルメットの前頭部と前歯でガガガガと路面を滑走するくだりなど読んでるだけで痛そうだ。
かと思えば心臓もおかしくなる。ツーリング先の宿で不整脈を発症し、旅程を切り上げて深夜埼玉県から都内までタクシーで緊急帰宅したりもする。この件はのちに悪化してついにはペースメーカー埋め込みに至り、あわや自転車人生の危機かと思われた。しかしその後も「強化心臓」と称して何事もなかったかのように快走生活を続けるのだった。

これらはまた、ひとつやふたつ病気したからといって自転車生活には影響しないという貴重な症例報告でもあり、古希あたりから乗り始めても80km以上走れる身体を作り上げられるという実証でもある。
これらの本は、これから老いに向かっていくわたしたちにとっての希望の書とも言えるのだ。

(↑ 文庫化に際して書き下ろしボートラ追加収録)

最後に、拾い物の新聞記事を。
2015年、氏82歳のときのインタビュー。

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