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『0.5』が『1』へと至るまでの物語【プリチャンシーズン2雑感】

 「キラッとプリ☆チャン シーズン2(第52話~第102話)」が放送終了しました。感想を簡潔に述べるならば、「『シーズン2』はアニメーション作品として出色の出来だった」と言える完成度だったと思います。

 含みのあるような言い方をしましたが、では「シーズン1はどうだったのか?」と聞かれると、忌憚のない感想を述べるとするならば「光る部分はあるが分かりにくい作品」だったのかな、というのが正直なところです。
 その主たる要因であったのが、シーズン1が「主人公不在の物語構造」であった点だと個人的には思っています。

 もちろんプリチャンの主人公は桃山みらいなのですが、彼女は非常に面白いキャラ造形をしている一方で、主人公として見た場合には「正しく主人公をやっているキャラクター」ではありません。
 彼女は目立ったコンプレックスを持っているわけでもなく、むしろありのままの他人を認めことのできる寛容さと、本人すら気付いていない素養を見出す慧眼を持ち、さらには困難に直面しても仲間と共に真っ向から立ち向う強い心も最初から有している。主人公というよりは「万人が思い浮かべる理想の人物像の体現」といった方がイメージが近く、あまりにも最初から完成され過ぎています。
 それ故に、シーズン1は「主人公の成長に寄り添い感動を共有する」という角度での鑑賞が難しいため、敢えて例えるならばドラえもんやサザエさんのように「ただそこに存在する別世界の日常を眺めている」という感覚の方が表出しやすかったように思います。
 そのため一アニメ作品として見た場合、物語世界において「我々が共感できる主人公」が存在しないことから視聴者が「観測者」の域を出られず、当然それは第三者であり悪い言い方をすると「蚊帳の外」であったわけです(反面、受け手の内的世界と共通する因数を持つキャラクターが軸で動く回ではハッとさせられるような印象深いシーンが生まれるわけですが)。
 プリチャンの描くテーマとしては、「主人公の成長」という文脈を描かないことそれ自体は間違っている訳ではなく、むしろ正しくあると思っているのですが、その構成の仕方はやはり情動を視聴者に依存する部分が大きく、映像作品の本質である「感情の再現装置」としては不出来であったのかなと感じます。

 しかし、シーズン2から登場した虹ノ咲だいあという少女は、ある特異性を有して物語世界に介入して来ます。それは、劇中の登場人物にも関わらず上述した我々視聴者と同じく「蚊帳の外の存在」であり、そしてその点について甚だ自覚的であるということです。
 第76・77話にて明かされた「光り輝く舞台で活躍する特別な少女たちと、それに憧憬する何者でもない少女」という図式は、プリチャンにこれまで存在しなかった「ひとりの少女の成長物語」という極めて高いエンタメ性を作品に付与すると同時に、これまで描いてきた「キラッと(=生まれ持った可能性、特別性、唯一性)」というテーマを、「何者でもない虹ノ咲だいあ」という存在を通して、非常にストレートな形で再度我々に投げ掛けてきます。
 何者でもない虹ノ咲だいあはすなわち私たち自身に他ならず、だからこそ理想と現実との乖離に苦しみながらそれでも前へ進みたいと慟哭する彼女の姿に胸を打たれ、同時に自分自身の原体験というものを強く想起させてくれる。そして究極の人格者であり「向こうの世界の住人」である桃山みらいは、虹ノ咲だいあを通して私たちにこう語りかけるのです。「やってみなくちゃ分からない。分からなかったらやってみよう」、と。

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 個人的にシーズン2のもうひとつのテーマだったと感じたのが、自己肯定・自己実現・自己確立とでも表現すべき要素だと思っていて、そのうち3つ目のテーマについて重要な役割を担っていたのがバーチャルプリチャンアイドル・だいあです。
 思うに、二人のだいあは互いに欠けた存在でした。虹ノ咲だいあは自己肯定感の低さという精神的な欠落、バーチャルのだいあはそもそもが虚像として人の手によって創造された存在であるという欠落があった。虹ノ咲だいあは自身の問題については自覚的でしたが、だいあはその点については極めて無自覚であり終盤まで意に介することはなかったものの、しかし、第89話で虹ノ咲だいあが周囲からの承認によって自らの問題を克服し、半歩ではなく自分自身で一歩を踏み出せるようになったとき、初めてだいあは自らの空隙に気付きます。それはアイデンティティであり、レゾンデートルであり、心という人間の本質そのものだった。
 第92話では虹ノ咲だいあがバーチャル世界に降り立ち、初めてだいあと対等に会話し、手を差し伸べ触れ合います。だいあはその手の温もりをどう感じたのか。ずっと続くと思っていた二人の関係が永遠ではないと知ったとき、何を感じたのか。

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 結局のところ、自分という存在は他者があって初めて規定されるものであり、そしてだいあにとって他者とは「虹ノ咲だいあ」唯一その人に他ならなかった。それゆえ、虹ノ咲だいあが自身の理想(=vだいあ)の姿に歩みを近づければ近づけるほどふたりの距離は離れて行き、ひとりぼっちになっただいあは自分自身という存在についてどんどん分からなくなっていく。そうして自身ですら解釈できなくなった感情の発露が、物語終盤で「アナザーだいあ」という形となって表出することになる。
 ここに至って「そこにいるのに、ここにいない」というフレーズがまさしく彼女自身を象徴するキーワードとなってくる。それはすなわち、未発達な自己同一性に起因する実在感の欠如だ。そして、AIとして生み出されただいあが黒化し、再び自分の姿を取り戻すまでの過程こそが、まさしく人間が生を受けてから自己同一性の獲得に至るまでのメタファーであるとも捉えられる。

 個性とは何なのか。ひいては、自分という存在とは何なのか。
 この人間にとって最も普遍的で根源的なテーマを、「二人のだいあの関係性の変化」からただひたすら真摯に、丁寧に描き出したのがシーズン2だったと言えるでしょう。

 第102話で、虹ノ咲だいあとだいあはキラ宿に一時の別れを告げる。光り輝く世界に憧憬を抱いた少女の夢は現実へと変わり、しかし人生はそこで終わらない。現実となった夢の続きを見るために、少女たちは半歩と半歩ではなく、二人で一歩を歩み出すのだ。そして我々に教えてくれる。天に遍く輝く光の数々は名もなきその他大勢ではなく、たったひとつだけの可能性を秘めた綺羅星のひとつひとつにほかならないのだということを。

 今日からスタートするシーズン3、今期は一体どんなキラッとした物語を魅せてくれるのか。明らかにプリパラを意識した舞台設定はどこへ合流するのか。そして、恐らくみらいたちが三年に進級する今年度でシリーズは終わりを迎えるでしょう。彼女たちの未来には何が待ち受けているのか。少し寂しくもありますが、今からとても楽しみです。

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