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マインドスケープ

最近、心の中に海があるような感覚が生まれた。
その海はその時々によって様子を変えて、同じ姿を見せることはきっと一度も無いんだろうなと思う。

その夜、私は死の淵に立っていた。

今までも何度も生と死をさまよっている感覚はあったのだけれど、その日はとびきりだった。一日の終わりに差しかかった部屋は真っ暗だった。自分の意思とは関係なく呼吸してしまう身体や、何も考えたくないのに湧き出てくる思考が私を苦しめた。インターネットで「自殺」と検索し、机に突っ伏して、あるいはベッドでうずくまり、延々と泣き喚いた。食欲が無いことに抗わずに、むしろ自ら進んで食事を摂らないようにした。丸一日食べないなんてことはしょっちゅうで、一食でも食べればましな方だった。その異常な空腹感は私に生きている実感をもたらしてくれた。生きたいのか死にたいのか、自分でもよくわからなかった。

手元には、精神科で処方された錠剤がたっぷりある。抗うつ薬は一日に投与できる最大量、頓服には頼りにしている抗不安薬、それと、夜に絶対欠かせない睡眠薬。藁にもすがる思いで抗不安薬を飲んでみたけれど、どうやら希死念慮には効かないみたいだ。

永遠に眠れたらいいのにと、本気でそう思った。睡眠薬をたくさん飲めば、ずっとずっと眠ることができるかもしれない。そうすれば何も考えなくて済む。何て楽なんだろう、幸せだ。それは天国で、死は救済だ。

なんとか生の世界にへばりついていたけれど、これがもう私の限界だ。

そんな時にふと、いつか誰かが掛けてくれた言葉を思い出す。

「死にたくなっても良いよ。死にたくなっても良いから、だから絶対に一度連絡して。それで、一時間だけ待って。」

私はiPhoneを手に取り、LINEを開き、文字を打った。
「すごくつらいです」
「助けてほしいかもしれないです」
そして、涙でぐしょぐしょになったバスタオルを抱え、玄関まで歩いてサンダルを履き、その場で睡眠薬を飲み、玄関で、倒れるようにして突っ伏した。抱えていたバスタオルからはいつもの石鹸の匂いがした。その清潔な香りがぼろぼろの体をそっと包んでくれているような気がして、少しだけ安心して眠りに落ちた。

車を飛ばして40分ほどで迎えに来てくれた同僚の夫妻に拾われ、そのまま夜の海を見に行こうと提案された。高い高い山に囲まれた場所で生まれ育った私は、今は海に近いところに移り暮らしていても、夜の海はまだ見たことがなかった。

私は後部座席に座り、車は海へと向かった。ぼんやりとした意識の中で、その時、自分が何を思っていたのか、どうやって振る舞っていたのか、全く覚えていない。

車を降りて砂浜に足を踏み入れる。柔らかい砂が足裏にまとわりつく。波の音と潮の匂いがする。遠い砂浜の向こうに光源があるのか、地平線が薄く光っている。橋が架かった向こうの島の上には蝋燭みたいな灯台が載っていて、遠くを照らしていた。

堤防に座り、しばらくじっとして過ごした。
初めて見る夜の海は真っ黒だった。とてつもなく大きくて、果てしない闇に吸い込まれそうだった。そこに飛び込めばすぐに遠くまで連れていってくれるのだろうな、と思いながら、白く泡立つ波を空っぽの心で眺めた。だけれど、私の両隣にはその親切な夫妻がいて、私が衝動的に海へ身を投げようとしても必ず止めてくれるだろう、ということが頭の片隅でわかっていた。この二人にはなぜだかそういう絶対的な安心感があって、そのやさしさに甘えていた。そんな夜だった。

あれから、同じ海を何度か見ている。
ある日は朝に、ある日は夜に、車の中から、電車の車窓越しに、浜辺まで歩き、同僚と、友人と、風に吹かれたり、花火をしたり、ギターを弾いて歌ったりもした。

そうして過ごしていくうちに、いつの間にか私の心の中にも海が生まれていた。私が日々眺めていた海のように、同じ姿は一度として現れない。あの夜の海は恐ろしかったけれど、近頃その海には気持ちの良い風が吹き、波音は心地良く、水面は太陽や月や星の光を反射してきらきらと輝いている。

これから生きていく時間の中で、絶えず寄せては返す心の波が、どうか可能な限り穏やかなものであって欲しいと、願っている。

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