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自己統合までの覚え書き

コスギスをコムニスにカエルことにしました。
そしてようやく、本名で活動する気持ちが固まりました。
Facebook に書いたものの備忘録です。

「カエルコムニス」という名称で会社を立てるのは来年になりますが、満を持して発表!みたいなことがちょっと苦手なので、長文ですがSNSでは覚え書きも兼ねて共有します。

なんだかんだで1年くらい考えていたことが、言語化できてきました。
自分が考えていたことは「パーパス」というものだったんだなと知ってから、考えやすくなったように思います。フレームワークって大事ですな。

カエルコムニスの企業理念

ビジョン
コミュニケーションによって社会をカエル

パーパス
無条件の肯定者

ミッション
HUG:安らかに自律できる場をつくる

バリュー(価値観)
・人は誰でも、対等に尊重される
・人は誰でも、自分で考える力を持つ
・人は誰でも、決定を変えることができる
・人は誰でも、コミュニケーションですべての問題を解決できる

クレド(行動指針)
H:普通を問い直す
U:うれしさを見つける
G:ゴールを共有する

■カエルコムニスのサービス
メンタルマネジメント
・カウンセリング(傾聴)
・ストレングスコーチング

ウェブコンサルティング
・デジタルマーケティングのチーム推進
・各種講座

■カエルコムニスの特徴
定量評価
※コーチングは定量評価されにくいので、定量評価できる仕組みをいれて継続的な成長を判断する
・エゴグラム、ストローキングプロフィール
・ストレングスファインダー診断結果
※ウェブの業務はむしろ定量評価がベース
・ウェブ解析、KPI設計、レポーティング

定性評価
※言語化と振り返り
・言葉の変化
・行動のための解像度の変化
・振り返りの言語化
・1年後の自分やチームへの手紙
※ここはまだ何をやらないかを決めてないので良く練る
・SNS運用
・コンテンツ編集

無条件の肯定者でありたいと思った背景

カエルコムニスのパーパス、つまり企業の存在意義は「無条件の肯定者」。これは、「天上天下唯我独尊」という仏教用語に似た考え方です。この世に生まれたからには、何かを足したり引いたりしなくても、あなたはたった1人の尊い存在なのだと認める者。すべての人間が唯一なのだから、対等なんです。

デカルトの「cogito ergo sum(我思う、故に我あり)」という考え方(の表層)も好きです。この世がすべて虚偽だとしても、そう考える自分の存在は事実であると。人間は思考する生き物で、それぞれの考え方が違うのが大前提。お互いの思考を尊重し合うためには、対話が必要なんです。

そんなことを考えれば考えるほど、やっぱり自分のことを肯定しなければ始まらないよなあ、と。

42年前、私の親は私に「清香」という名前をつけてくれました。

山が好きで、山で出会って恋をして私が産まれたので、由来は「ほしかげさやかに」から来ているようです。

でも成長するたび、私はこの名前が嫌いになっていきました。

まず、同級生に「さやか」という、とてもカワイイ子がいました。いわゆる「お金持ち」の子で家も広く、洋館みたいなその家に遊びに行った時、家の大きさに心細さを感じたほどです。対する私は、いわゆる「田舎の子」で、ほっぺを真っ赤にして男の子とよく遊んでおり、5つ下の弟が優先された(と幼心に我慢していた)ことで、身の回りにあるのは男物が多かったです。小学校時代に乗っていた自転車は青くてロボットが描かれていたものでした(その後弟が乗るときになってシルバーに塗りつぶされてた)が、当時の私はなんの疑問もありませんでした。そして、私のあだ名が下の名前になることもありませんでした。

私のセクシャルマイノリティーは、すでにこのあたりからあったのかつくられたのかはもうどうでも良いのですが、少なくとも、自分が女性であることを認められなかったんです。性別があることも自分が女性の身体であることも理解はしていたのですが、「中性」への憧れがずっとありました。

そして、「清香」という字はとにかく読み間違えられます。たいてい「きよか」か「せいか」なので、ますます自分には「さやか」という名前がそぐわないのだと思い知らされてきました。今ですら、美容室のオネイサンには「きよかさん」と呼ばれます。正すのも面倒くさいのでそのままにしていますが。

きっと、たくさんの小さな傷を負っていたのだと思います。世の中の「さやか」さんは、本当にみんな、かわいらしい人ばかりで。

そして中学生の頃から、創作活動にハマりました。友達と小説を見せ合いっ子したときにペンネームを考えようということになって、当時の名前は「霧雨 聖」でした。いいでしょう?厨ニっぽくて。

泉鏡花の作品に「高野聖」っていう、高野山のお坊さんのちょいホラーな小説があるのですが、内容以上に「聖」を「ひじり」と読むことに衝撃を受けたんです。なにこれカッコイイ!!!!!って。お坊さんのことなんですけどね?

「聖」としての活動は、この時代から始まっています。本当の自分を出せる名前は、このセカンドネームの方でした。何より、男性か女性かわからないこの名前が大好きでした。活動のインフラがネットになると「神無月 聖」の名前で活動するようになります。決して巧いわけではないけれど、大好きなものを大好きと言える自分だったので、コスギスとして起業した際も本人確認がないものはずっと「聖」の名前でやってきました。苗字はずっと「K」なんですよ。

「清香」としての自分は、根暗で、嫉妬深くて、人の顔色をうかがって、自己犠牲精神が強く、愚痴っぽくて、刹那的で、優性思想で、まさに嫌悪感が名を持ったもののようになっていたので、向き合うまでに相当な時間がかかりました。なにかの折にふと本名を呼ばれることが、呼び間違えられることが、自分で自分を傷つけるためのトリガーになっていたことにも、ようやく気づきました。

「清香」としての自分は最悪なダメ人間だけど、「聖」としての自分はチャレンジできる。その決意は私にとって生存戦略のひとつだったのですが、カエルコムニスのことを考えていたら、分離している自分のままで死にたくないな、と思えるようになったんです。

それに、こういう人間は私以外にもいるんだろうな、とも。

あくまで対等に「そういうこともあるよね、にんげんだもの」と言える対象になって、「どうにかしたい」と差し出された手を離さないでいようと決めました。

そんなわけで、「小杉 聖」は「コスギサヤカ」になりました。読み間違えられるのはやっぱりイヤなので、漢字は使いません。Facebookの設定は変えたんですが、反映はまだかな。

「コスギス」という屋号も、そこかしこにある「小杉 聖」の名前も来年中頃にしれっと変える予定なので、引き続きそのまま呼んでもらえるのはウレシイです。学生時代のあだ名みたいなものですし。

どのタイミングでまとめようかなあと思っていたのですが、ちょうど産まれた日を思い出す節目ということで。今後ともよろしくお願いいたします。