僕なりの相対性理論


世界はバランスを保っている。

僕らが居る場所が朝であれば地球の裏側は夜である。
何かが生産されれば何かが消費される。
豊かな国があれば貧しい国がある。
天使がいれば悪魔がいる。
幸せな人がいれば、

息が詰まりそうな夜を過ごし、同じ場所を反復横跳びするような悲しみに襲われ、当たり前のように来る明日を憂う人もいる。


いや、幸福の在り方にまでバランスをあてがってしまえば、人間が人間たる意義を極端に狭めてしまうだろうか。"世界"という箱庭の中で有限的な意思選択と、漠然とした毎日を繰り返すこと、命が命を繋ぎ止めるだけの生産的消費活動というのはあまりに狭窄的思考であるかもしれない。

自転車は動き続けることによってバランスを保ち進むことができる。常に動くことにより求めている結果を手に入れることができる。
では死んだように生きていると揶揄されるような人は、止まっているのだろうか。
偏見のみでの思考になるが、そんな人は自分自身の人生に何の価値も見出せず、満足することもできず、日々悶々とした葛藤を抱えながら、それでも繰り返される毎日に何の疑いも持たず、ただ無心に順応していく生活を送っているような印象だ。
これは死んでいることと同義だろうか。
見方を変えれば大きな変化をすることもなく淡々と同じペースで動き続けているのでは。
これはもはや死んだように生きているのではなく、極めて効率的に命を全うしているということにならないだろうか。

世界は自らの解釈でできている。

事実というものは存在しない。
存在するのは解釈だけである。
と、言い残したのは かの有名なニーチェさん。そのロジックを利用させてもらうと自分が見ている世界は全て自分が作っていることになる。

そうである場合、いまこの瞬間に、言葉にできないほど形容し難い苦しみや、自分以外の全てが無に感じるほどの孤独を抱えている人たちは、全員自らその世界を創り上げ、その世界に留まり続けているのだろうか。


例えば、
人生で何もかも上手くいく人がいたとして、適量の不幸を与えることは世界の均衡を保つことに繋がるだろうか。逆に、人生で何もかも上手くいかない人がいたとして、その人に与えなければならないものは適量の幸福なのだろうか。

前述した理論で考えるのならば、その不幸な人は己の解釈を持ってして"自分の世界"を変えることができることになる。ただここで問題になってくるのは、「その"自分にとって最も心地良い世界"が存在していることに気づくというのは極めて難しい」ということ。
いま見えている世界の他に存在し得る世界線を自らデザインするというのは、ある種おとぎ話を生み出すようなものではなかろうか。


そのおとぎ話は自らを不幸にすることができるし、幸せにすることもできる。
"自分の世界"のバランスを決めるのは何があろうと自分しかいないし、きっとそこに意味などはない。

そもそも世界などという曖昧なものなどさほど重要なことではない。

幸せに意味などない。
あるのは呼吸をしている自分だけ。

重要なのは、影の上に自分がいることだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?