思い出と未来の狭間(後編)


12月30日
僕が最も憧れているボーカリストの命日である。

高校生の頃そのバンドの存在を知り、その美しさに衝撃を受け、絶対にライブで見たいと思った1週間後、ボーカルの訃報が入った。
強烈な感情が走ったのを今でも覚えている。

毎年この日になるとこのバンドの曲を聴き、生きることについて考えている。
人生には二度と取り返しのつかないような後悔があることを知った。毎日の繰り返しの中で蔑ろにしていることの方が多いことを知った。
そして、人は突然死んでしまうことも知った。


人は、本当に簡単に死んでしまう。



この世に生を受けた瞬間、いつか必ず死ぬことが確定する。多少なりとも違いがあるならば、それが早いか遅いかの違いである。

大切なあの人も死ぬし、尊敬して止まないあの人も死ぬ。世界一幸せでいて欲しいような可愛い可愛いあの人も死ぬし、死んで欲しいくらい憎んでいるあの人も、結局最後は死ぬ。

そして自分もいつか死ぬのだ。


僕はどのようにして死んでいくのだろうか。

願わくば惜しまれながら逝きたいと思っているが、それは僕がどのように生きてきたのかという結果だ。
誰かに必要とされる存在でいたいというのは、結局のところ自分がどうあるべきであるかということを突き詰めた先にあるものだ。
他人からの愛情はその答え合わせのようなものだと思っている。


昨日、身内から連絡があった。
祖母の最期が近いとのことだった。
祖父が亡くなって間も無く認知症を患い、徐々に弱っていき寝たきりになった姿を見ていたので覚悟はしているつもりだった。


一緒に送られてきた写真にはあまりにも変わり果てた祖母の姿があった。以前にも増して痩せ細り、頬はこけ、生きているのか死んでいるのか分からないような状態だった。

刹那、心臓を握りつぶされるような感情に襲われる。
心拍数も上がり、呼吸は浅くなる。

恐らく自分は、酷く動揺したんだろう。


あれだけ優しい眼差しで可愛い笑顔を見せてくれていた祖母が。あんなに沢山の愛情を与えてくれた、祖母が。
こんなに痛々しい姿になっていたのだから。

医師によるとこれより回復する見込みは無く、あとはもう残された体力次第だという。


「最後の最後まで、本当によく頑張っているね。」
自分にはそう思うことしかできなかった。


誰にでも分け隔てなく優しく接し、裏表のない愛情をいつも沢山の人に振り撒いていた。自分の祖母ながら、非常に立派な人だった。無口で頑固な職人気質の祖父を傍でずっと支え続け、個性豊かな3人の子供を立派に育て上げ、孫である自分をいつも優しく見守ってくれていた。


祖母との思い出は今も色褪せることなく数えきれないほど自分の中にしまっている。その思い出の中にいる祖母と、この変わり果ててしまった祖母は全く同じ人だということが、僕はにわかに受け入れ難かったんだろうと思う。


いま、彼女と話ができるならどんな話をするだろうか。
まずどんな人生だったかということは聞くだろう。そして、祖父との馴れ初めについても聞いてみたいし、あわよくばどれだけ好きだったのかとかも聞いてみたい。
3人の子供たちは誰が1番手を焼いたのかも気になるな…あと、自慢の孫であったかどうかは特に聞きたい。
まぁもう既に僕のことは忘れてしまっているからそれは難しいかもしれないな。

そして、死ぬのは怖いのかどうか。
目の前に迫った"死"に対してどう思うのか。
自分の人生について振り返るんだろうか。

祖母の人生は幸せだったんだろうか。


親族とはいえ、他人である自分が他人の幸せに思いを馳せるのは些かおこがましいとは思うが、自分は祖母の孫で本当に良かったと思っている。僕は幸せだった。

だからせめて、あなたがいてくれたおかげで幸せを感じることができた人間がいるということだけは伝えたい。
もう何を言ってもわからない状態であったとしても、僕と祖母が生きているこの間に。


少し先の未来ではもう祖母は亡くなっているのだろう。
そしてきっと自分は悲しむ。また今まで以上に思い出をなぞる日々を過ごすことになる。
そこにいる祖母はいつまでも優しく微笑んでくれる。


思い出というのは、本当に素晴らしい機能だ。

この世に2つとない、自分だけものだ。
これは誰からも干渉されるものでもない。


思い出の中に存在している世界は、いつも自分にとって素敵で穏やかな景色を見せてくれる。そしてその時間は永遠に進まない。思い出の中にいるあの人は、いつまでもあの頃のままだ。

だから自分は沢山の忘れたくない思い出を抱えていた。
どれもこれも大切なものばかりだ。

ずっとずっと、素敵な思い出たちにしがみついていた。
自分は、過去に生きているのと何ら変わらない。



もう少しで今年も終わる。

今年も色々なことがあったし、沢山の出会いがあった。
いつまでも大切にしたいと思える出会いもあったし、こちらからそう願っても叶うことができずに終わってしまった関係もあった。人間関係における死も沢山経験した。良いこともあれば悪いことも数えきれないほどあった。

こんなにも世界は進んでいるのに、自分は過去に囚われがちでなかなか前に進めないでいる。

そもそも社会不適合者である自分は一生懸命社会に馴染もうと奮起している。ただ、やはり一定以上の努力を怠るとこの世は生きづらいと感じてしまう。
そんな時、自分は自分だけの世界に逃げてしまうのだ。
思い出は僕のことを裏切ったりしない。

そんな毎日を繰り返していたら、いつからか未来が見えなくなっていた。
永遠にやって来る明日に怯えるような日々は昔ほどはなくなったが、今度は未来に対する希望さえも失われていた。というより、明日が来ることが当たり前になりすぎて毎日を真剣に生きていないことに気づいた。


「そんな人生はもはや死んでいることと同じ。」


20代前半の頃の世間知らずな自分がそんなことを口走っていたような気がする。
その頃の自分の目には、今の自分はどう映るだろうか。
盛大に罵られるんだろうな。


ただ、こんな自分が、祖母が最期に見る孫の姿には決してなりたくない。
もう先は長くないにしても、いまの自分が伝えられる最大の感謝と、立派な孫だと誇ってもらえるような生き方を精一杯示したい。

少しでも後悔を感じないような最期であってほしい。


これが思い出と未来の狭間に刻んだ、イマを生きる自分の決意だ。


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