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J-popシーンを変えた?

昭和と平成の時代を彩るJ-Popの巨人の一人が井上陽水であることは
間違いではないでしょう。

1960年代にアメリカのフラワームーブメントの影響を受けた日本のフォークシーンは、「岡林信康」や「五つの赤い風船」「赤い鳥」「高田渡」などに代表される反体制的かつ哲学的意味合いの強い曲が若ものを中心に受け入れられていました。

しかし、安保闘争、東大闘争などの社会運動の挫折から、次第に身近な自分の心境を歌う事に聞き手は移行していきました。

哲学的な歌詞から恋の歌に変貌していった「吉田拓郎」や「四畳半フォークソング」と揶揄された「神田川」を歌った「かぐや姫」が、出てきたのは、70年代初めでした。

70年代、8年代、9年代を席捲した陽水

1970年代当初、同じころに「井上陽水」は再デビューをしています。
実は1969年に「井上陽水」は、「アンドレ・カンドレ」という名前でデビューしています。

その時のデビュー曲は「カンドレ・マンドレ」でCBSソニーからデビューしましたが、あまり注目はされませんでした。

1年の空白期間ののち、ポリドールレコードからファーストアルバム「断絶」をリリースすることになり、名前も「井上陽水」に変えました。

このアルバムに収録された「傘がない」が最初のヒット曲になりました。

新聞に記事よりも恋する人に会いたいと切々と歌うメロディーが、当時社会構造変革に挫折した多くの若者の心に響きました。

雨が降っているのに傘がない、けれども会いたい気持ちが強いから、雨の中を会いに行かなくちゃ。
当時は、コンビニもなく、傘屋もそれほど多くあったわけでもないので、ある意味、傘は貴重だったのかもしれません。

そして、傘を買うお金もない余裕のない暮らしをしている若者の屈折した心を癒したのは「井上陽水」のあったかい歌声でした。

人気を決定づけた3枚目のスタジオ録音盤

「傘がない」で注目された「井上陽水」は最初のライブアルバムで通算3枚目のアルバム「陽水ライヴ もどり道」で人気に弾みを付けます。

このアルバムの中で、今回取り上げた「いつの間にか少女は」が初めてフルアルバムに収録されました。

1973年の1月にライブアルバムを発売し、同じ年の12月に、日本で初めてミリオンセラーとなった「氷の世界」をリリースし、「井上陽水」は一気にメジャーとなりました。

それ以降は多くの方が知っての通り、ヒット曲を重ね、ビッグネームとなりましたね。

いつの間にか少女は

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