「愛」も「自殺」も根本解決にはならない。

今朝の目覚めは、そうとうに悪かった。
私は最近毎日のように悪夢を見るようになってしまった。
寝つきが悪いのは相変わらずだが、起きても疲れがまるで抜けていない。
そんな毎日。
先日、月曜日のこと。
原因不明の倦怠感に嫌気がさす。
月曜日からこの疲れ様では1週間乗り切ることはできないと判断し、今日は火曜日だというのに急遽有給をもらっていたのだった。
この1日でしっかりと心身を落ち着けようと、貴重な有給を使った。
それだというのに、私の脳髄はひどい仕打ちをしてくれたものだ。
記憶に留まるほど鮮明な3本立ての悪夢を返礼してくれたわけだ。
私は、私の脳髄に酷く落胆した。
まぁ、今日はそんな朝だったのだ。
いい1日になるはずもない。

今日は酷く寝つきが悪い。
床に入るまではよかった。
ルーティンをそこそこ満足にこなすことができたからだ。
しかし、どういうわけか私の脳髄はギアを上げたらしい。
日中は読書も1時間と続かないほどの低馬力だったのにも関わらず、黒煙をバカバカ吐き出さんばかりに稼働している。
私の脳髄はどうなってしまったのだ。
なにがイヤで私のいうことを聞いてくれないのか。
イヤなことがあるのなら、悪夢を見せるなど回りくどい方法をとらなくても良いだろう。
私たちは一体ではないのだろうか。

時に、私は基本的に死にたいと思っている。
こんな話に情報量はないのだし、話すことで得することなど一切あり得ないため、私はこの話を他人にしたことはない。
サーバーに余計なゴミを増やすという点でも、この様な発言をすることは憚られる。
いつもならば。

私は基本的に何事も深く考えていないため、私に対する他者からの評価は鬱患者へのそれとは対照的な位置にあるだろう。
しかし私は学生の頃から死ねるのならば今すぐにでも死にたいと思っている。
退屈な時間のみならず、旅行先で食べ歩きをしているときだって、思っている。
しかし、私は今死ぬわけにはいかない。
それは背負うものがあるとか、そういった凡庸なものからくるわけではない。
私は、「無」を完全に理解するまでは、自殺が正当なのか分からないのだ。
だから、今、死ぬことはできない。

私は輪廻転生を信じている。
それはなぜか。
それは、私が消えるということが起こりうるとは思えないからだ。
私はきっと死ぬ。
死ぬと私はどうなるのか。
ちょっとしたうたた寝から気がつくのと同じ様に、次の一生が始まるのではないか。
そしてその次の私も、同じことを感じ、同じことに苦しみつづけるのではないだろうか。
解決の鍵は、「無」にあると見て間違いがないだろう。

創世論、ビッグバン。
この世の誕生に関して大まかなトピックを2限論にしてしまうとする。
私の様に無学な人間からすると、この様な話は成立していないのではないかと感じられる。
説を立項するにしても、前提条件として必要な事項が欠けているではないか。
全てが存在しない「無」がどういったものなのかを理解できていないままでは、学者が語ることと、学位も知能も専門知識もないこの私が語ることの間に、どのくらい重みの差が生まれるというのだろうか。
現状わかっている範囲から逆算するだけでは、アキレスはいつまでも亀に追いつくことはできないのではないだろうか。

真の「無」
色とは、光に依存している。
「無」であるのならば、まず光はないとみて間違いがないだろう。
しかし、光の不在を見て我々は「無」を感じられるのだろうか。
それは、「黒」に感じられるのではないだろうか。
このような問答は、いまこの世界に存在している概念の数だけある。
色一つとっても「無」を概念化させてしまう我々人間が、「無」を理解することはできるのだろうか。
理解できたとして、私は「無」になることができるのだろうか。
そもそも、私はどこからどこまでが私であり、私でないのか。
「無」とは不可逆的に侵襲してくれるような都合のいいものなのだろうか。
私の中には代々受け継がれたバトンが存在しているのだろう。
一体どれだけの私によるものかは分からないが、込められた思いは一つだろう。
バトンなど空想上の、「無」のものである。
しかし、私にとっては存在しているとしか感じられないのだ。


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