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足利の織物と銘仙

こんにちは。
 
2024年もスタートし約一か月が経とうとしていますね。
私は、家族の体調不良が年末にあり、まさに寝正月でスタートした一年です(笑)なので、京都に帰省し織物の話を聞くのは持ち越しになりました。
 
お正月と言えば、北関東の辺りのお雑煮はどんな感じですか。
私の実家では親鳥から出汁を取り大根と人参が入ったお雑煮でした。地元の方では大根と人参をひいたもの、大根と人参のひぎなと言えば通じるのですが(笑)一般的にはお節の紅白なますの大根や人参の千切りや細切りのようなものです。
 
今年もこうやって身近なところで、それぞれの地域の違いに気づいたり、北関東の魅力や銘仙に触れる機会が多くなる一年を願っています。
 
それでは、前回まで、足利銘仙の柄のお話から、銘仙の柄、そして織姫神社のお話と続いてきましたが、今回からは、更に足利銘仙の流行の理由について紐解といていきたいと思います。
足利銘仙が流行した背景には、三つの要因があると言われています。まず一つが、今までお話してきた高いデザイン性のあるモダンで特徴的な柄の実現、そして安価で丈夫な着物ということで一般庶民が普段着として取り入れることができたという点と足利銘仙の独自で先進的な宣伝方法という点です。
 
安価で丈夫な銘仙については、マガジンのVol2でも簡単に触れましたが、今回も少し考えながら、足利の織物の歴史にも触れたいと思います。
 


 
銘仙が誕生する以前の足利における織物産業には古い歴史があります。
足利は栃木県の南西部にあり、昔から織物で栄えた場所でした。足利周辺の関東地方の北西部の辺りは、零細な農業環境ゆえ、古くから養蚕・製糸を取り入れた織物業が営まれていたそうです。その歴史は、奈良時代に遡り、足利地方から「ふとぎぬ」を献進したことに始まり、鎌倉時代の徒然草においては「さて年毎に給はる足利の染物(足利の織物)」とあるほどです。
江戸時代後期には、足利は産業として一大産地となりました。それ以降、明治時代には、織物の生産方法の改良と電気を用いて運転する力織機の導入によって輸出の拡大、昭和初期にかけては、ここでもお話している足利銘仙の流行と、織物の街として大変栄え認知されてきた街です。
 
足利銘仙は、廃棄処分となることが多い「繭玉」や「屑繭(くずまゆ)」から採れる太い糸をタテ糸に用い作られていました。B級品の繭を使用していた為、その織物で作った着物は安価で一般人が普段着として着用することができました。そして、安価での販売を実現させた背景には、大量仕入れ・大量生産を可能にしたこともあります。足利は銘仙が出てくる以前から織物の産地として有名だったこともあり、安価な値段での製造販売を可能し実現させることができ、他の銘仙とも比べると、足利銘仙は手頃な価格で入手できたそうです。
そして、ヨコ糸に太い糸を使用している為、厚地の着物を作ることができ、「丈夫」「軽い」「着心地良し」というメリットがありました。そして、裏表どちらの面でも着用できる為、汚れたら逆に着て、長く使えるということも当時は大変利点だったそうです。
 
価格相応以上の価値があり、それが認知されていたのでしょう。
私は、安く買えた服は傷んだりしたらすぐ捨ててもいいという感覚で購入し着ていることもあるので、「物を大事にする」という意味で考えると、本当に消費するだけの服になっているかもしれないな…と考えさせられました。
 
また、このときはまだオシャレを楽しむ為の銘仙というより、普段着として使用できるメリットが大事にされていた時代ですね。銘仙は、まずは一般庶民の間で普段着として流行し、そしてその後、普段着の中に女性としてのオシャレの楽しみをも見出すことになります。
 
次回からは、足利銘仙がより多くの女性に好まれた理由を、流行した要因と共に紐解いていきます♪