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足利銘仙の宣伝・販売戦略 vol.1

こんにちは。
先日、関東は大雪に見舞われましたね。雪国マウントなんてワードも聞くようになりましたが、杜の都県でも雪の多い地域出身の私は、久し振りの雪には冬が来た~と思い、あえて出かけたり率先して雪かきをしようとしてしまいます(笑)

また、北関東に引っ越してきてから、冬で驚いたことの一つに、雪が降るとスーパーも早くに閉店するという。ホワイトアウトの中を通学通勤したことのある身としては、これは本当に新鮮でした!

それでは、近所の子が作ったのか駐車場にある溶けかけの雪だるまを見ながら、冬を感じながら、今日も足利銘仙について紐解いていきたいと思います。

今回からは足利銘仙の宣伝、販売戦略について考えてみます。
足利では、今でいうマーケティング戦略が実現し成功していました。この成功した背景には、大きく分けると四つの要因があると思います。

まず一つ、「足利銘仙会」の発足と「足利本銘仙」についてです。
足利は古くから織物で栄えた街で、器用な産地として次々と流行りの染織物にも対応していました。そして、進んで輸入洋糸を用いたり、横浜で外国商人相手に販売するなど、足利銘仙に関わる人々の気質は進取の気質が顕著だったそうです。しかし、この気質が決して良い方向だけに作用したわけではありませんでした。

器用な産地ゆえ、様々な染織物に手を出した結果、足利の特産と言えるものがなく、また生産体制も整っていませんでした。後には、傷物や色落ちするものが増えたことで信頼を失い、「九州のある小売屋の店頭まで『足利物扱い申さず候』という張り紙がされ」 ※1 「大多数の製品は他産地を経て取引せざると得ない」 ※2 と言われるほどに当時の足利銘仙の評判は悪かったそうです。

この評判を払拭させる為に、足利独自の優良な銘仙を作って天下とその技を競うことを決意し、昭和2年に「足利銘仙会」が発足されました。

以降、製造から販売まで全ての製品は定められた一定の規格の上で検査を受けるように体制が整えられました。そして、体制が整い良質の銘仙を作れるようになった足利では、悪い評判から脱却する為、足利銘仙という名称変更の検討がなされました。その結果、これが本当の足利銘仙であるという自信も込め命名された「足利本銘仙」が誕生しました。足利銘仙は、数々の苦労を乗り越えそれまでの悪評を覆すことに成功したのです。


商品を販売する上で、一度付いてしまった悪いイメージを払拭させるのは並大抵のことではなかったと簡単に想像できます。また足利銘仙は、実際に商品を手に取るエンドユーザーだけではなく、その業界や小売店で悪評が付いてしまったという点で、更に苦労したかもしれません。

私も小売り経験者でメーカーさんや問屋さんと直接商談をすることがありましたが、その商品の良さを伝え、それを自店での売れ筋商品にするということは、どこか一か所だけが頑張ればいいという訳ではありませんでした。

メーカーさんはその商品の良さや評判を伝えてくれる、それを判断した小売店が自分の店でどのようにお客様に提案するべきか考え実行する、そしてお客様の目に止まる、お客様から他のお客様にも伝わる、また予想以上の売れ行きのときはなるべく早くの出荷をメーカーさんにお願いするなど、それぞれが循環し、良い商品が更に売れる商品へとも育っていくと感じていたからです。

足利銘仙会と足利本銘仙の命名によって、足利銘仙の方向性はもちろん、宣伝方法や販売戦略の基礎の部分ができたとも言えると思います。
次回は足利銘仙の宣伝、販売戦略について、これ以外の要因から考えてみます♪

※1 金井好三郎「足利銘仙裏話」『あしかが文化』(昭和53年度第4号)
※2 大島理太郎「優秀品を目指して銘仙足利の名をなすまで」『織物之日本』(昭和6年)