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1995年のバックパッカー11 上海ー香港


上海出港

個室というのはいいものだ。誰の目も気にせずに気ままに過ごすことは大切だ。6畳ほどの広さだが、充分である。ベッドと机、シャワートイレ、鍵つきのワードロープ、必要な物が無駄なく配置されている。寝そべったまま全てに手が届くとまではいかないが、数歩進めば事足りる。散らかったものがない質素で清潔な空間であれば、心から寛げる。

予告通りに14時に上海を出航した香港行きの船は、人数分の煩悩を乗せて南進した。長江の河口は広大で対岸が見えなかった。こういうことを体感できるのが旅の良さでもある。沖へ出てしまうと景色は水平線だけになる。天気の変化を受けて、海の色は刻々と様々な色を見せてくれる。飛行機の浮遊感とも違う大海に出ていく時の独特の高揚感は、古代の人間たちも感じていたのだろうか。
上海から香港に向かうこの船がどの程度のランクに属するのかは僕の経験からは判断できなかった。新しくはないが、古すぎるということもない。国際航路船だけあって、かなり大きいのは分かるが、高級なものではなく内装は結構くたびれている部分もあった。それでも僕にとっては初の2泊3日の国際航路で、すべてが目新しかった。

18時になると、夕食が始まった。あらかじめ指定されたテーブルで、初対面の乗客たちと共にするのだが、3つの料理から2つ選ぶことになっていて、空腹だったせいもあってとても美味しかった。ひとつ挟んだ隣のテーブルに可愛い中国人の女の子をみつけた。いつもなら躊躇なく声をかけるところだが、なぜか見送った。全ての出来事に理由なんてない。なんとなく、そうとしかならないこともある。
食後はバーで青島ビールを飲んだ。外の空気に当たりたくなってデッキに出ると雨が降っていた。僕は雨と海に挟まれていた。それだけのことにも胸が高鳴った。二十七歳というのは意外と何も知らない。
デッキからは一般多人数部屋の様子が窓越しに見えた。そこにはさっき見かけた可愛い中国人の女の子の姿があった。明日にでも声をかけようと思った。他にも素敵な人がいるかもしれないが、とにかく彼女には近づいてみることにした。
21時過ぎにレストランへ夜食にに行くと、30あるテーブルに対してウェイターとウェイトレスは一人ずつだけで、客もわずかだった。ほとんどの乗客は寝てしまったのだろうか。それにしては早い。僕はがらんとした空間で肉絲炒麺を食べた。おいしかった。
食後に再びデッキに出た。そんな気はなかったが、なんとなくあの女の子がいる部屋の窓を見ると、薄い毛布にくるまってすでに寝ている様子だった。明日の夜は彼女と一緒にここで夜食を食べて、一緒にデッキでのんびりできるだろうと想像し、そして確信した。旅というのはどうでもいい現象のつらなりで、それは基本的に軽いものだ。
霧雨の中しばらく暗い海を眺める 。振動はあるが前進している感覚がない。柵に身を乗り出し海面を見ると、客室の明かりが輪郭のあいまいなスポットライトのように海面に漏れて映っていた。その丸い光の中で、船が波をかき分ける時に作る水泡が、一方向に流れていく様子が見え、やっと船が進んでいることが実感できた。

翌朝は7時半に起床した。旅の朝はだいたいこんな感じだ。
そそくさと着替えやらを済ませて朝の散歩に出るような感じで、デッキに出ると、海の色が明らかに昨日とは違っていた。深い藍色とでも言えばいいのだろうか。長江の濁りの影響下にあった昨日の海とは違って、本当の海原に出た思いがした。
声をかけてきた早起きの白人乗客に、「グッドモーニング、アーリーバード」と声をかけられ、早起きの鳥という表現を知った。なかなか詩的だな、とすぐに覚えた。

朝食は19番テーブルだった。同席したのはあの可愛い中国人の女の子だった。
などという偶然はなく、モントリオールからの老夫婦だった。質素で品のいい二人で、9ヶ月のアジア旅を楽しんでいる最中で、現在はちょうど四ヶ月目だった。二人とも歳は七十くらいだろうか。人生晩年の大盤振る舞いという旅でないことは、彼らの醸し出す雰囲気や身なりから伺えた。日頃から無駄遣いを控えているような感じは、知的なカップルにも見せていた。
おそらく何年もかけて構想してきたツアーなのだろう。ガイドブックなどから得た知識と現実の姿を重ね合わせてはみ出た部分を、全て楽しもうとする好奇心が彼らの瞳にはあった。人間は、いつまでも子供のような好奇心を持ち続けられるのだなと感心した。
などという気持ちはほとんどなく、歳なのに元気だな。くらいの感想だった。それよりも僕の心は、いつの間にか隣のテーブルに座って眠そうにしている例の中国のキラキラに傾いていた。この子はきっと早起きが苦手なんだろう。つまり、夜寝付くのも遅いのだろう、いや、昨夜は9時過ぎには毛布にくるまっていたはずだ、ならとにかく睡眠時間をたっぷり取るタイプか、昨夜はひょっとしたら船酔いで早めに休んでいただけかも、などと目の前のモントリオールを無視してぼんやり思い巡らしていた。
朝食が済むと、僕はそそくさと自分の個室!に戻った。
昨夜の夜食と船のエンジン音と振動、揺れなどが重なって、胃もたれしていた。つまりそれほど元気ではなかった。中国のキラキラに近づくには、僕自身もある程度調子のいい時にしたい。そんなわけで休息が必要だった。僕は午前中はベッドに横になって過ごした。

それでも11時半からのランチには参加して、食後は再びデッキに出た。そこには例の中国人の女の子がいた。黒の細身のパンツが似合っていた。だが、ここでも僕は声を掛けられなかった。ただなんとなくその気になれなかった。部屋に戻ると腕立て伏せと懸垂をやった、と日記にあるので、体調云々ではないだろう。さらに日記には、雑誌スイッチ用の原稿を執筆とある。これはいったいどういうことか。その内容はまったく覚えていない。もしかしたら、その原稿のことで頭がいっぱいで、中国人の女の子は後回しになってしまった可能性は考えられる。現在の自分からしたら、勿体ないことをしたなと感じる。
個室に戻り、原稿を書き、時々デッキに出ては水平線の見えないほどの靄を眺めた。
18時からの夕食後は、バーで青島ビールを楽しみ、酔いを覚しにデッキに出る。深い闇色の海を眺めていると、その中に飛び込みたくなる衝動が生まれた。そのために使う筋力などを想像すると、死の近さがリアルに感じられる。それは遥か彼岸にあるのではなく、こちらの岸の足元すぐにある。その実感に身震いした。
坂口安吾と金子光晴を交互に読書して1時に就寝。悪くない1日だった。


翌朝も7時起床。深い靄。午前中原稿を書こうと思うが進まず。昼食後、外へ出ると30度近い気温。現在地は廈門のあたり。台湾海峡を船はいく。
船上の生活にも慣れ、エンジンの振動と騒音も暮らしのバックグラウンドに溶け込んだ。たまたま居合わせたいっときの隣人たちとも顔馴染みになり、この船だけ残して世界が沈没してしまったら、後世の子孫たちからは、船上の僕ら全員が神話の登場人物になるのだろうなどと想像した。ノアの方舟のような。そうなったら僕は人類存続のために、あの中国人の女の子を妻にしたいと願った。恋の予感やその結末をセットにして脇に置き、船上の人たちと、役割を分担し、残された食料を分配し、なんとかやっていく。僕は水平線を眺めながらそんな空想に包まれて、息が止まりそうだった。父よ母よ、妹よ。そして友よ、さようなら。残された人類として僕は果ての果てを彷徨おう。
だが、現実はもちろんそんなスケールを持ち合わせていなかった。
その日の日記は次の一行で締めくくられている。

インド人の嘔吐。 ダンスパーティー。水平線を示す漁船の列と星空。

翌朝は、最後の朝食をいつものテーブルで、いつものメンバーで共にした。カナダ人の老夫婦、オーストラリア人の夫婦、インド人の大男。僕はさしずめロン毛のちゃらそうな日本人といったところか。
そして、隣のテーブルには中国人の女の子はいなかった。結局声を掛けることは叶わなかった。
「出会った時が、声を掛ける時」
この2泊3日の船上で学んだのはこういうことだった。そして、これがとてつもないトラベラーズチップとなることをその後の旅で僕は思い知ることになる。体調や感情は一旦捨てて、僕はとにかくすぐに声を掛けるようになる。

香港到着は予定より大幅に遅れて14時になった。上海を出港した船は、九龍という厳つい名に入港した。「燃えよドラゴン」のテーマソングが脳内に響いていたことは言うまでもない。


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