ネットを始めればすぐにシェアすることを求められ、拡散はされればされるほど良いとされていて、常に他者からの評価と隣合わせの世界。 この資本主義の世界では沢山の人に届くことが正義であり、沢山の人に共感されるには普遍的・一般的であることが求められる。 また逆に他者の世界が流れこんでくることによっても自己が膨張・拡張し、オリジナルの価値観が画一化・菲薄化されていく。 どんなに感動して心を動かされたコンテンツも、一瞬笑って条件反射的に反応したコンテンツと同じ「1いいね」の評価に収束して
「自分って〜〜な人間だから」というのは救いにもなるんだけど、足枷にもなると考えてた 自己理解によって必要以上の罪悪感を切り離せるけど、自分のできないことを性質によって言い訳してるとも思えるし 正しいと思い込んだその性質によって本来残されていた可能性がなくなってしまうこともあるなと感じてる HSPやMBTIの性質知ったときはだいぶ気が楽になったけど、その定義にとらわれてしまっているような気がしたり 正確に理解できてないだけかもだけど、正確に理解するのもまた難しいわけで、
正しくあろうとして知らず知らずのうちに本心に嘘をついてしまうことはよくある。 でも、正しさのみによってどうするか決めるのは、例えるなら藁にすがったり、流木に掴まったり、そのくらい超あやふやな概念によりかかること。自分の中に軸がないとふらふら流されて、気がついたらとんでもないところまで来てしまうこともある。 だから、正しさというのは時と場合によって変わるし、人によって全く違うし、見方を変えればあっさりと容易に反転してしまう基準だと理解する必要があると思う。 自分に対して嘘
良い組織とは何だろうかということをよく考える。 やはり、風通しの良いボトムアップな組織が良い組織だと思う。 トップダウン型だと不満が下層に溜まってくる。それは一定時間が経つと収えきれなくなり、最終的に溢れ出てきて組織にヒビが入る。 常にどのスタッフも環境を改善しようという意識を持ち、最適なシステムを追い求め、互いの意見を認め合う、それができる組織を作りたいと思う。 現状維持は相対的退化であり、常に世界や社会は変化していく以上、常にアップデートし続けなければならないとい
量子って、観測していないときは波なのに観測すると粒子になるらしい。 https://m.youtube.com/watch?v=vnJre6NzlOQ 人間も身体と精神という連続性と不連続性を併せ持つ存在だという考えがあるんだけど、これは世界の普遍的な構図のひとつなのかなという気がした。
「救い」は救われた側しか使えない言葉だと思ってる。 「救ってあげる」には「相手が自分によって救われること」を強要する要素があって、そして知らず知らずのうちに行為に対する「相手が自分に感謝する」見返りを求めている。 このことを自覚していないと、気付かぬうちに、貴方のためにしている愛情がどうして報われないのという憎しみに反転していく。 まどマギのさやかちゃんなんかまさにそうだと思う。人を助けることは正しいこと。でも自分を犠牲にして他者を優先し続けた結果、こんなに頑張っても報われ
ずっと怒ってはいけないんだと思い込んでた。 でも、本来怒りっていうのは自分の防衛反応として必要な感情で、冷静になって考え直してもなお自分の身/心が脅かされていると判断できるなら、この怒りの気持ちは自分にとって必要であり、正当なものだと信じて良いと思った。 ただし、怒りの気持ちを肯定したからといって、相手に怒りの言葉をぶつけて自分の気持ちを解消しようとしても、それは一時の憂さ晴らしにしかならない。 この怒りの本質はどこで、自分の望みは何なのかを一人で冷静に深める作業が必要だ。
いつも自分なんてたいした存在じゃなくてって思ってたし 卑下してばかりで自分のこと大切にするなんて発想が全然なかった でもそうこうしているうちに自分に認めてもらえない苦しさが心のどこかに募っていって、最終的にその行き場のない思いが他者に向き始めていたんだと思う 許せない気持ちがたくさん膨れ上がっていってしまって何もかも受け入れられなくて 自分のことを否定する分には誰にも迷惑かけてないしそれで良いと思っていたしそうするのが正しいくらいに思っていたんだけど その攻撃性があ
思ってたより自分って負けず嫌いだったのかもしれないと気づいた。 占いで「心のどこかで1番じゃないことにストレスを感じている」と書かれていて、最初はそうかな〜?と思ったけどだんだんそうなのかも…となってきた。 占いの内容だし間に受けてるつもりではないんだけど、自分ではそんな発想が微塵もなかったから、いつも心の中に抱えていたモヤモヤをうまく具現化できた気がした。 いつも他者と比べて自分を卑下しがちな思考回路だった。ずっとなんとかしたかったんだけど、うまくいかなくて。 それ
罪と赦しはセットでなくてはならないのではないかと思う。 どちらか片方だけではうまく行かないことが多いように見える。 まずは罪しかない場合について。 何か問題があったとき、「自分が悪かったのだ」「すべては自分のせいなのだ」と思ってしまうと自分を責め続けることばかり考えてしまう。 自分一人には誰かの心を左右できるような影響力があるはずもなく、あらゆる物事には様々な要因が絡み合って起こることなのだから、すべての責任が自分にあるというのは過大な自己評価であるのにも関わらず、渦
みんな、ただ感情が満たされるものを追い求めている。だから気が付かないうちにわけのわからないものに巻き取られて自分を見失っていく。 科学に関わると、"2つの事象には因果関係があり疑似相関に陥ってないか"ということと、"根拠は本当に信頼に値するものか"ということが重要だということが分かる。 擬似相関(ぎじそうかん、英: Spurious relationship, Spurious correlation)は、2つの事象に因果関係がないのに、見えない要因(潜伏変数)によって因
みんなあっさり煽動されててびっくりした。 ルサンチマンを煽れば簡単に飲み込まれてしまうのだとつくづく思う。 政治っていうのは対立する意見が妥協する場であって、勝負して自分の意見を100%通す場ではない。だから相手を負かしてみたいな発想はそもそも違う。 また政治とはゴールが明確ではなく、どれだけ多くの人が利益を得られるかを探っていく慎重なやり取りの場なのであって、お祭り騒ぎにしてエンターテイメントに落とし込まれてしまうのは危険だ。現代における魔女裁判でしかない。そして行き
世の中は空虚なものでいっぱいでもううんざりでうんざりでうんざりだ 沢山の人に共感してもらえることこそ素晴らしくて水で薄めて薄めて薄めたみたいな話しかなくて感情と刺激に溺れるだけの繰り返し。何を考えているわけでもなく目の前に提示されたものに条件反射的な返ししかしてなくてそこにあるものをあるとしか認識してなくてその裏でうごめいている本質に気づこうともしないでただ息を吸って言葉のようななにかを垂れ流してるだけ… 今まで生きてきた時間の中で一体何を考えてきたの?考えて考えてその程
なんで最近noteが書きやすくなったのか考えた結果、普通にタイピングが早くなったからではないかと思い至ってなんだか拍子抜けしてしまった。 以前noteを続けようとして挫折してしまっていたのは、習慣がつかなかったとかかしこまりすぎていたとかマインド的なソフトの問題もあったが、それ以上に技術的なハードの方が問題だった。タイピングという出力作業に時間がかかっていてめんどくさくなってしまっていたんだけど、今はそういうストレスが軽減されたからなんとなく続けられているんだと思う、たぶん
褒めるにはエネルギーがいるから褒めなくてもいいですか。 褒めなさい、良いものにはすかさずポジティブな言葉を言ってあげないとだめで、創作している人はそれが必要だからしてあげなくちゃいけないみたいな論調を見かけて、あー私もそうしなくちゃいけないのかなと思っていたんだけど、別に自分はそんなに褒めてもらわなくても勝手に描きたいものを描いていたような気がするし、そういう正論布教人間の言葉によって"絶対に"私も褒めなくちゃいけないんだ、と思わされていたと気づいた。 お世辞による心労も
何もしなくても家ってすごく汚くなるのと同じように、人の心も定期的にメンテナンスと言うか、調律をしないとどんどん歪んでいく気がする。 じゃあその調律が何かって言うと、こうやって考えてること思ってることを文章にしてデトックスしたり、本を読んで自分にとって心地よい思想を取り入れることだったりするんじゃないだろうか。 そしてそれをするには誰にも邪魔されない自分ひとりの時間が必要で、物理的にひとりになるのはもちろんだけど、ネットのSNSとか掲示板とかの精神的な繋がりも一旦スイッチを