山谷議員の「不条理発言」に騒いでるうちは何も進まない
先日山谷議員や簗議員、その他国会議員がLGBT発言?失言によって炎上していたらしいが、彼女らが戦犯のように取り上げられているのは見ていて気分が良くない。彼女らの発言よりも大事な問題があるはずなのに何故かそこは議論に上がらない。
(参考までに、下に貼ったのはウェブNEWSに乗っていた記事だ。)
私の話を始める前にそもそもの前提として、私は政治家の味方でもLGBTQ活動家の敵でもなんでもない。だけど1人のLGBTQ当事者、アスリートとして思ったことがある。この記事はシェアしようか迷っていたけど、シェアすることにした。
「男性の方が心は女性だからと言って競技参加して、色々メダル取ったり…ばかげたことが起きている」一連の報道で山谷議員のコメントとしてこう書かれている記事を多く見た。
まず大前提として、"ばかげている"といったような発言は何度もインタビュー動画を見返したがどこにもそんな表現はない。改めてこういう情報の書き方にはうんざりする。
それはさておき、こちらの記事。
これを読んで最初に私が思ったのは、「そもそも当事者とは誰のことを指しているのか?」ということ。
当事者側が反論をしているとあったので、私はてっきりその競技に出ていたトランスジェンダーの選手が発言をしていたのかと思った。そしたら、日本にいるLGBT”当事者”の方だったので、色んな意味で興醒めした。
当事者という言葉はよく使われるが、なぜかLGBTの話になると一部のLGBT活動家の方々が全ての”当事者”になり、彼らの意見が当事者の意見になる。
「”当事者”という言葉の1人歩き」、と最近言われたりしているが、改めて当事者とは何か考える。
ちなみに、記事そのものは公平に書くつもりだけれど、私個人の意見としては、トランスジェンダー(MtF)の選手が女性の競技に出場すべきではないと思っている。なぜそのように思うのかも含めて、今回の件について私なりに考えたこと、調べたことなどを時系列で書いていこうと思う。
この記事を書こうと思ったきっかけ
今回私が書こうと思った理由は、山谷議員の発言の一連の騒動やニュースを見ていて、気持ちの良くないモヤモヤが私の中に生まれたからだ。これを解消したかったため、この記事を書きながら頭の中を整理した。
この記事の内容
以下の5つの大枠について調べたり、考察したものを元に記事を書いていくことにした。
1、山谷議員の発言について
2、LGBTQ活動家について
3、不条理発言騒動について
4、トランスジェンダーアスリートについて
5、私の疑問、感じた事、考えた事
自分が何を知りたいのか整理してみた
大前提として、ものごとを議論する時、何を根拠に話すのかはとても重要だ。なのでまず調べてみたのは『トランス女性アスリートがメダルを取っているという実態』について、
①そのトランス女性アスリートたちの実績
②実際にその選手たちは何をどう考えているのか
③現地アメリカではどういう報道をされているのか
④トランス女性アスリートは実際に何を思っているのか
⑤トランス女性アスリートの周囲の人、それ以外の人たちはその事実に対してどういう考えでどういう主張をしているのか
⑥そもそものスポーツのあり方や法律、ルール、生物学的問題、社会etc...
これらを知ってようやく私たちも議論を始めることが出来る。とは言ってもあくまでもざっくりとしか調べていないので、詳細なデータとかの話はできません。笑
また、日本語訳は私の簡易的な解説とともに意訳を載せます。全てを訳すことはしないのでそこら辺ご了承ください。そして、ここにある情報が全てではないので、あくまでも参考程度に読んでみてください。
現地アメリカでの実際のニュース↓
調べてみてわかったこと
私が思っていた以上にトランスジェンダーアスリートは世の中にいたということだ。今回分かっただけでも、陸上、自転車競技、ラグビー、パワーリフティング、レスリング、格闘、バスケットボール、バレーボール、、、
そしていずれの挙げた選手も全米大会や世界大会などに出場している。議論の的になっているのはトランス女性(MtF)の選手たち。アンドラア. Yとテリー. M (陸上)、ヴェロニカ. I (サイクリスト)、ローレル. H (パワーリフティング)は今回調べただけでも色んなニュース番組やサイトで取り上げられていた。
欧米ではこうした『トランスジェンダーの選手について』、テレビなど公的メディアだけでなく、YouTubeチャンネルなど個人レベルのメディアでも取り上げられている。こういった番組では『スポーツ×ジェンダー』の議論でも日本では見ないだろうな、というくらいLGBT問題のそのものに突っ込んだ話をしているのではないかと感じた。
↓こちらはイギリスの朝のテレビ番組での討論(画面をタップすれば飛べる)
本当の当事者の声について考える
これらのニュースでは直接トランス女性(MtF)アスリート、その周囲の人たちや競技に関わっている人たちにインタビューをし、当事者としての声を聞いている。
1つ目のビデオでは、2人のトランス女性アスリートたち(アンドラア、テリー)を軸にその周りの人たちの声も取り上げている。このニュースでは高校生の
トランス女性(MtF)アスリート、その子の両親、レースでアンドラア、テリーに負けて3位になった女性アスリートの母が登場している。
2つ目のビデオでは、トランス女性アスリートが学校でのスポーツ競技参加することについての議論。
3つ目は、トランス女性アスリート2人と女性アスリート2人のそれぞれの想い、思考、見ている世界など、対照的な考え方や見え方を映し出している。
4つ目、トランス女性が東京オリンピックで舞台に立つことを考えた時に、トランス女性たちにとってルールは公平か?色んな人の立場や歴史、身体能力の差など数値的な観点から議論がされている。
これらの動画を観て改めて思うのが、これが本当の意味での"当事者の声"の扱い方ではないかということ。当事者とは、「問題が起きた時にその場で直に体験し、影響を受けた人物のこと」を指す。LGBT当事者とはLGBTに該当する人たちではあるけれど、全てのLGBT問題の当事者ではない。そこは履き違えてはいけない。
そもそもの論点をどこに置いているのか
色んな立場の人の考え方、コメントなどを見ていてやはり思うのが、それぞれの論点が異なることだ。
例えば、1つ目のビデオ。それぞれの言葉や立場を簡単に意訳する(私の意訳になるので、もし一語一句理解したいとしたらプロの方にお願いをしてください笑)。
トランス女性アスリート:
リポーターから『もし仮に自分たちが女性アスリートだったとして、ある日突然、トランスジェンダーの子が来て「ヘイ、今日から私たちもチームに加わったわ」と言って、入ってきたらどうする?そのことであなたたちはレースに出れなくなっちゃうかもしれないわ』と聞かれた時の返事
『私はその子たちをやめさせるような事はしないわ、ただ私がもっと速く走るための刺激になるわ』『私は幸せになるわ。その子たちがやりたいことをできるのなら』『彼女たちは特別なの、勇気があるわ』
トランス女性アスリート両親:1番の優先順位は彼女らのウェルビーイング(健康で幸福な状態)であることだ
(父):
私は子どもを育てるということに関して話しているんだ。
もし公平さを話すとして、陸上で彼女らが除外されてしまったら、彼女らはその場所に居場所はないんだと思ってしまう。
(母):
彼女がいたいと思う場所にいることを許すというのは、彼女にとってただメダルを取ることよりも大事なこと。
他の女子アスリートの母:
女子アスリートはトランス女性アスリートと比べ、身体的に不利な立場である。トランス女性は元々、スポーツにおいて身体的に有利になる「テストステロン」っていうホルモンがあることが証明されているの。
その他、第三者による動画に関するコメント
・「身体的に男性、だけど心は女性」?頼むよ!これは身体的(物理的)な競争の話だよ!
・トランス女性にはトランス女性のリーグが必要
・私は別にトランスジェンダーの人たちに偏見があるわけではないけど、本当に、これはただ違う形での不正行為だ
・オーケイ、「他の人にとっての公平」、よりもフィーリング(彼女らがどう感じるか)の方が大事ってことね。
・男女で分けられたスポーツの目的を根本的に壊してるよ
・私は別にどちらに対しても強い想い(意見)はないよ
・彼女らはフェアじゃないことを知ってるさ、ただどうでも良いんだ
・子供たちをそっとしておいてやれよ、なりたいようにさせろ。私はトランスインディビジュアル(何かに限定されない、個を超越した存在)だ。
・幸せになるのは良いことだよ、僕も彼女らにそれを願う。だけどフィジカルアドバンテージ(身体的な有利性)を持ってることは間違いない。彼女らは女性アスリートと競うべきではない、特にそれが他の女性たちのチャンスを奪ってしまっているなら。ステロイドを打っているというような不正行為と変わらない。問題は、彼女らの身体が男性から女性になったことで、男性と競争するのには不利になる可能性もあることだ。トランスジェンダーのカテゴリーを始めるべきじゃない?それに対してトランスジェンダーアスリートは問題なく感じるか?
当たり前だが、立場が違えばどこに重きを置いてこの問題を見ているか、何を思うかは人によって違うのだ。
スポーツにおけるジェンダー問題が慎重に議論される理由
2つ目の動画でも出てくるのだが、「27%もの10代のトランスジェンダーが学校で安全を感じていない」
「35%の10代トランスジェンダーは自殺を試みたことがある」といったデータ。
10代(思春期)の子どもたちにとって、人格形成がされていくこの時期は周囲の影響を受けやすいし、大人に比べると自我(アイデンティティ)も繊細で脆い。だからこそ「子どもたちを守る」、そういった環境づくりをする必要がある。それは間違いなく大事なことなのだ。
些細な一言がその子の心をえぐるかもしれないし、いじめや仲間はずれ、人格否定にもなりかねない。人の尊厳を守るという観点で、”性自認”というのは他の第三者がどうこう言うべき問題ではないのだ。
しかし
それと同時に問題なのは、競技スポーツは性自認ありきのものではなく、身体能力ありきのものであるということだ。イメージしやすくするためにSEXとGENDERの違いと一緒に説明したい。
Sex(セックス)とGender (ジェンダー)
画像をタップをすればサイトに飛べる
SEXとは、生理学や解剖学などの、生物学的な要素に関係している。例えば、男女の性器は異なる。それと同じようにホルモンの種類やレベルも違うのだ。女性はエストロジェンとプロゲステロンの値が高く、男性はテストステロンの値が高い。そして遺伝的要因で言えば、染色体が女性はXX、男性はXYと異なる。
GENDERとは、社会の中で与えられた社会的、文化的役割を意味する。生まれてから、男の子は男性として、女の子は女性として育てられ、本人の中でもそういった精神的・心理的な性が培われていく。家族関係やメディア、友人、教育といった社会的環境の影響を受けながら育っていくのだ。
SEXは、生理学的や解剖学的などの、男女間の生物学的違い
GENDERは、行動や感情、心理的・文化的役割など男女の特徴と関係しているもの
競技スポーツはGENDER(性自認)ではなく、SEX(身体能力)によって分けられた。そもそも違う領域の話であるということ。
ジェンダーの扱い方が腫れ物に触るよう
しかし、こういった事実を踏まえた上でも、今回のように「トランス女性が女性の競技に参加などするべきではない」。こういった発言をすると、Homophobia(同性愛嫌悪)だとか、「尊厳を無視してる」と言われかねないということ(いや、実際に言われている)。
議論をするには事実を話し合っていかなければならないのに、LGBTの話になると、「アイデンティティの問題だから」となり、攻撃的に取られてしまう。今回の例で言えば山谷議員は「不条理発言」で炎上。意図せずとも発した言葉が問題発言として捉えられてしまう可能性があるのもまた事実である。
「性自認」「社会的属性」「スポーツ」「公平性」etc。。。
これだけの違う分野の話を、1つの『競技スポーツ』という分野で話し合わなければいけない。けれど、ジェンダーのトピックは今や地雷のようなものだ。いつ踏んで爆発するか分からない。そんなトピックを軸に話し合わなければいけないのだから、エネルギーも時間もかかるのも仕方がない。
身体の能力と数字が全ての世界
ここで当たり前の話をするが、競技の世界では身体能力が全ての世界である。特に陸上などの世界ではコンマ1秒、1cmが勝敗を左右する。その数字をいかに伸ばせるかで、一生名前を覚えられる人間になるか、忘れ去られてしまう人間になるかが決まる。
また、アスリートとして競技を続けていきたくても、身体能力が及ばずトップまで届かなかったり、活躍できない選手は山ほどいる。逆にトップの世界では、エリートアスリートと呼ばれる、恵まれた身体能力や競技能力を最大限まで高めて来た選手が集まる。そして誰が最も優れているか、それを決めるのが数字だ。だからこそ、コンマ1秒、1センチの距離や高さなど数字の価値が重くなるのだ。
しつこくなるが、アスリートとはそういう「身体能力と数字」の世界であるということを今一度ここで言いたい(もちろん頭も使うが、ここでは戦術などの話は省く)。
男性と女性の身体は違う
そんな世界では、男女の身体能力の違いがより顕著に出る。例えば陸上の世界では、タイム/記録/距離など。全ての選手が限界までトレーニングを積んできた結果の数字だ。そこですら発生する男女間での数字の差というのは、そもそもの絶対的な身体能力の差を表しているのだ。
*1枚目:年齢ごとに変わる男性(赤)と女性(黄色)の記録の違い
*2枚目:男性と女性のトップアスリートの100m走の記録(世界一最速と平均値のグラフ
どちらも2つ目に載せた動画で出てくる
トランス女性が女子競技で戦うことの何が悪いのか
ここでは「トランス女性アスリートが女子競技に参加すること」が批判されている理由。色々とニュースなどで挙げられていたので、その「何故」を2つのグループに分けてここにまとめる。
①トランス女性アスリートの身体能力
②トランス女性の競技参加による二次的な問題・懸念
①トランス女性アスリートの身体能力
トランス女性の競技実績や化学的根拠に基づいた指摘:
・いくらテストステロンの値などがオリンピックやその他大会で規定されている条件に収まっていたとしても、そもそも男性として生まれたトランス女性の身体能力は骨格や筋繊維、心臓の大きさなど女性よりも強く、”運動”という面において身体能力が優れている
・そもそもの身体能力の差による女性アスリートの危険性がある(格闘競技で過去に2人の対戦相手の頭蓋骨を損傷させたトランス女性アスリートがいる)
各方面でよく見た指摘のまとめ:(以下の2つは似ている、どちらも男性のアドバンテージについて話している)
・女子競技の大会記録や世界記録がどんどんトランス女性によって塗り替えられていっている。反対に、トランス男性(元女性)はトップカテゴリの男子競技で、トランス女性のような成功を収めている選手は誰もいない。
→トランスジェンダーでスポーツシーンで成功しているのは男性から女性に転向した場合のみ。ということは男性に元々備わっている身体能力というのは女性には絶対的にないもの。
・男性競技の中で男性として戦っていた時の身体能力/競技レベルはエリートレベルではなかったが、性が変わってから、女子競技のトップレベルで優勝をしたり記録を塗り替えている選手がいる。
→男性という枠の中では一般レベルの身体能力のいち男性が、女性というカテゴリに行ったから勝てているんだという指摘。
(世界大会に出てくる選手たちは、エリートアスリートの集団である。そう考えた時、そのトランス女性がエリートアスリートならば、そもそも男子競技で戦って勝てている。けれど、男子の中で戦っている時は無名だった選手が女子競技では記録を塗り替えたり、優勝したりしている。ということは、あくまでもそのトランス女性のアスリートとしての実力は低いということ。そういうエリートでないレベルの男性(トランス女性)アスリートが、女子競技のエリートアスリートの集団の中で勝てているのは、”元男性”というアドバンテージがあるからに過ぎない。)
②トランス女性アスリートが女子競技に参加することで出ている二次的な問題、懸念の声
•女子競技の記録がどんどんトランス女性によって塗り替えられていっている
•そもそもの性別で分けられたスポーツの意味を破壊している。
•学生にとってレースや競技での結果は、スカーラーシップ(奨学金)を取れるか取れないかを左右する。(アメリカの大学の学費はバカがつくほど高い。わかりやすくまとめているサイトがあったのでここに載せる)。
•競技でのトランス女性アスリートの存在は、女性アスリートの活躍の場を奪ってしまっている
トランス女性を見下したり、嫌悪感を抱いているのではない。でも単純に、競技スポーツという観点で観た時に、(生物学的に)”女性の競技”に”元男性”が出るというのは、「はいそうですか」と終わる話ではない。競技としても競技者にとっても複雑で繊細な話だ。
無責任にジェンダー理論を振りかざさないで
上記の要素も踏まえて、「不条理発言撤回しろ」と言っている人たちに問いたい。
全ては勝つために。今までどんなに遊びたかった時も、好きだったことも我慢して、大会のために自分の生活全てをささげてトレーニングをしてきた1人の女性アスリートがいた。身体も最高の状態に調整して、「勝利/結果」のために自分の人生をかけてきた。
けれど彼女は大会予選で負けた。決勝の舞台にすら行けることが出来なかったのだ。そして表彰式、彼女が見つめる先に立っていたのは、予選で彼女が負けた相手である。金メダルを首からぶら下げていたのはトランス女性(身体が男性)の選手だった。
これが実際に目の前で起きた時、この負けた選手になんて声をかけるつもりなのか?
「惜しかったね、頑張ったよ。でもしょうがない、精一杯やったんだから自信持って。次があるよ」とでも言うのか。本当にその相手の立場に立って考えた時、彼女が納得すると思うのか。
競技スポーツは身体ありきの世界だ。そもそも、”元々女性で生まれた女性アスリート”と、”元々男性として生まれて性別を変えた元男性アスリート”は生物学的に身体の機能が違う。
ところが、とあるLGBT当事者の代表からは「トランスジェンダーの実態を無視し、当事者の尊厳を貶める悪質な発言」というコメントがあった。
「不条理」という言葉は、果たしてLGBTの人を否定するために発せられた言葉なのか考えてみてほしいところだ。そのレースや大会に参加していたのはトランスジェンダーの選手だけではない。というより、そのレースに参加していた選手たちこそが当事者なはずだ。トランス女性以外の選手たちにとってはトランス女性の参加は不条理にならないのか?
こうした「トランスジェンダーの人たちの"尊厳"」という大義名分のためによって本当に排除されてしまっているのは、真っ当に戦っている女性アスリートたちの存在なのではないかと思う。勝利や輝くチャンスを失った人たちもいるのだということを忘れてはいけない。
LGB含め、T(トランスジェンダー)の方々の人権、尊厳はもちろん大切だ。けれど、それはみんな同じであって、私たちさえ良ければ良いというわけではない。自分たちの権利を尊重して欲しいのであれば、それと同じように他の人たちの権利も尊重しなければならない。LGBT当事者が抱えている問題と全く同じことである。自分たちも「知らぬ間に他の誰かの権利や居場所を奪ってしまっているのではないか」と、相手の立場に立って考えることを忘れてはいけない。理解を求める立場なら尚更だ。
ここから先は私の個人的な意見がほとんどなので、あくまでも中立的な話しか聞きたくない、という方はここで止めてください。
少なくとも、トランス女性アスリートの件について”本当の当事者の声”や”トランスジェンダーアスリート関連の問題の本質”を知っていくきっかけになれたなら嬉しいです。ここまででも長い記事だったかもしれないですが、読んでくださりありがとうございました。
それではここから私見も踏まえて進めていきたいと思います。
トランスジェンダーアスリート
『スポーツの参加は全ての人が認められるべきであり、公平でなければならない。公平さとは、トランス女性を含むこと。医学的にも法律的にも女性であるトランス女性をスポーツや社会から除外することこそが不公平である。』一部抜粋
サイクリストのヴェロニカ選手はこう発言をしている。(彼女へのインタビュー動画もあるので興味がある方はこちらからどうぞ)
いかにも正論を言っているようだけれど、医学的・法律的に女性であることがイコール生物学的に女性にはならない。上でも述べたように、そもそもの身体の構造が違うのだ。彼女が言っているのはジェンダーの話であって、競技スポーツはセックスによって分けられているのだ。いくら手術やホルモン治療をしたとしても、セックス(器としての身体の大きさや備わっているもの/骨格、筋肉、内臓etc...)は完璧に女性にはならない。そしてそれを彼女は自覚している。だからこそ、医学的・法律的と言ったり、慎重な言葉選びになっている。私はそう感じた。
トランスジェンダーは競技やスポーツをする場で苦労をするのはわかる。だけどそれ以前の問題として、遊びのスポーツと競技のスポーツは違う。LGBTQの問題だろうと障害の問題だろうと、他のどんな問題であろうと、競技というスポーツの性質は変わらない。それは、身体能力を武器として競う世界であるということだ。
そして、身体能力(生物学的な差)を考えた時、私はトランス女性が他の女性アスリートと同じフィールドで戦うことはフェアではないと思っている。
科学者ではないので細かいデータとかはわからない。けれど、20−30年男性として生きてきて、その後数年女性として生活をしてきた選手が他の女性アスリートと同じ条件で戦っているとは思わない。
それを、優勝やタイトルは自分の実力(自分が努力したから勝ち取ったもの)と微塵も疑わない様子を見ていると首を傾げてしまう。トランス女性(に限らずだ)が、その人が何を主張しようがどんな風に生きようがそんなことはどうでも良い。ただ、自分のことを棚に上げたような考え方や発言をする自己中心的な主張は聞いてて心地よくない。
人は元々持っているモノには気づかない。男性としての身体のベースが出来上がっている男性が(手術やホルモン治療によって)女性に変わった時、筋肉やパワーなど落ちたものには気付いても、骨格や内臓、遺伝子レベルで元々持っているものには気づかないんだろうなと。ヴェロニカ選手もだが、高校生のランナーたちの発言を聞いていてもそう感じた。
議論の質を上げる
100人いれば100通りの考え方が存在する。そしてそれぞれで、何に価値を感じるか違う。
だけれど、今回の山谷議員の発言へのLGBT当事者側の反応のように、問題の核となる部分に触れずにただ「心が女の子だから〜」と言う山谷議員の発言に対し、反射神経で反論するような活動家のあり方はどうなのか、と私は言いたい。
確かにジェンダーの話題は人によってはとてもセンシティブだ。傷ついたり、とある一言がトラウマになったりもする。また、その痛みや辛さを知っているからこそ、LGBT活動家の方々の日々の活動があると思う。けれど、競技の世界は別物だ。そういう世界に敬意を払わないまま、自分たちの主張だけしても共感は得られない。むしろそういった活動家の謝罪だとかの署名運動とかが本来されるべき問題の議論のチャンスを潰してしまっている気がしてならない。
私はLGBT活動家の方々が、署名運動や抗議運動以外で議論している印象がない(もしかしたら私が知らないだけかもしれないが笑)。LGBT活動家であるなら、擁護や理解を求めるだけでなく自分たち自身が、こうしたLGBT関連の議論をもっと積極的にしていくべきだ。
そして、オリンピック五輪/競技スポーツに向けて必要な議論は、
「トランスジェンダー選手含め、DSDを抱える選手たち(例:陸上/セメンヤ選手)、さらには遺伝子レベルでの優勢を持ったアスリートたちが今後どんどん出てくるはずだ。そうした中でどうしたら競技として成り立っていくのか」
これで良いではないか。政治家は思考・言動に一般の私たちよりも気をつけなければいけないことは誰でも知ってる。その立場の人が周囲に誤解を与えるような表現をするべきではない。ということなんて誰でも知ってる。(意図的にあえて差別発言となるような言い方をしたという見方もあるが)そういう誰でもわかるようなことを専門家同士が揚げ足取ってやんや言って何が楽しいのか。
今回の不条理発言騒動、発言撤回と辞任?に10万人の署名が集まったらしいけど、複雑な気分だ。
まとめ
今回の私の考察は、1人のトランスジェンダーアスリートとしてのものである。スポーツをやる上で、ジェンダーを取るか、アスリートとしての道か、迷った時期もあった。けど、私はLGBTQ当事者である前に、いちアスリートだった。だからこそ、不条理発言の騒動がこのまま謝罪と撤回だけの方向に進んでしまうのはこわいと思った。
私はこれまで、色んなところの”活動家”と呼ばれる人たちに対してモヤモヤを抱えることがあった。けれど、今回の山谷議員の炎上した発言によって、何故こんなにもモヤモヤするのか改めて考えることができた。
ジェンダーの学術的研究の話や法律の話なんか詳しくわからない。だけど1人の大人として物事を観た時に、多様な個が共存していく世界で『自分の主張だけして生きたいように生きれば良い』なんてことはあり得ないと分かる。だからこそ、それをわかっているはずのマイノリティの私たちが同じことをしてどうするんだと言いたい。
LGBT活動をする人たちは「排除されてしまっているLGBTやマイノリティの人たちのことを理解してもらい、認めてもらうため」に日々活動などをしているはずだ。それなのに、少しでもこうした失言?発言があると、「やれ謝罪だ、やれ辞任だ」と、その人間を排除しようとする。
何か問題が出てきたときに、相手の発言の真理も確かめようとせず、オリジナルの理解をして畳みかけるように潰しにかかる。そんな事をしても、そこには壁しかできない。
そうではなく、何か問題が出てきたときに、相手の発言の真理を確かめて、きちんとお互いが理解した上で話し合いを進める。そうしなければ壁はなくならない。
というより話にならない。
とか言ってると『お前も結局はネット上の情報しか知らねーじゃねーか』とか言う人も出て来そうなので先に言っておく。そうだ、私も「ネット上の情報だけで批判をしている」ことに変わりはない。そして、私の話は私のフィルターがかかっている。
だからこそ、こういった問題が怒った時、実際に自分の目で見て、耳で聞いて、調べて得た情報を色んな方向や可能性から考えることが大事なのだ。
結局はそれをみんながみんなやっていかないといけない。情報過多な今の世の中なら尚更だ。何が本当で何が嘘なのか。自分で確かめていく必要がある。
最後に
今回は私が集めた情報を元に記事を書いたわけだが、実際は私の知らないこともまだまだ沢山あるだろうし、私自身が間違った認識をしている可能性もある。だから、もしこの記事を読んで、時間があったら調べたりしてみてほしい。そして自分の意見を持ってもらえたらと思う。
ちなみに、今回はトランス女性が女性リーグで活動しているという話をメインに話を進めたが、実際にはトランス女性が男性リーグで活躍しているという事例もある。気まぐれで最後に載せたいと思う。
それでは、今回も長い記事を読んでくださりありがとうございました。
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