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なぜ私はLGBTQスピーカーになったのか

21歳の夏、私は性のカミングアウトをした。


『お願いだから。後ろ指を刺されるような人間にだけはならないでくれ』


子供の頃からそう言われ続けて育った私は「人様に迷惑をかけてはいけない」「親を悲しませてはいけない」という意識が自然と思考や行動の軸になっていった。

それだけが今の自分の思考や行動の癖の原因じゃないのは知っている。もともと自分が持っている性質だったり今まで自分が関わってきた環境や人、一つ一つが複雑に絡み合って成り立っているものだ。けれど、これだけ長く生きてきた人生の中で、言葉の抑揚やその表情含めて『お願いだから〜…ならないでくれ。』と言った母の顔を鮮明に覚えているということは、それだけ心にも残っているということだ。

そしてもちろん、今までもこれからも人様に迷惑をかけるようなことはしないよう気をつけるし、母親を悲しませるようなことはしたくないという想いはある。


それでも、私はカミングアウトをした。

LGBTQであることは今でもたまに理解されないことがある。という背景を考えると、8年前の2013年、まだまだ世間でもLGBTというワードさえ知らないという人がまだいた時代。後ろ指で刺されてもおかしくないような行動を私は選んだ。

先に伝えたいのが、このブログに登場するどんな人物も批判するつもりは全くない。言うまでもないが、私がこれまでの人生で出会って来た人や関わって来た人たちは最高に素敵な人ばかりだし、私はみんな大好きだ。こうした身の上話をすると、被害者というか、傷ついた人だったり周りが悪く見られることもあるけど、それだけは勘違いをしないで読んでもらえたら嬉しい。なぜなら私自身が生きてる人生はいたって普通だし、これまで乗り越えて来た壁も誰もがぶつかるものだからだ。

これは私が20年以上抱えてきた自分の性についての葛藤やライフイベントなど、簡単に自分史としてまとめたものになる。

ジェンダーについての話題や議論がますます増えていく今の世の中で、実際LGBTQの人たちはどんな問題を抱えているの?と疑問に思う方々もいると思う。なので私は、私自身のライフストーリーを通して、「こんなところでこういうことがあった、その時私はこういう風に感じてこう考えた」というのをLGBTQ当事者だからこそ遭遇した事例として伝えていきたい。

けれど、これを読み進めていく上での注意点が4つある。

①ここにある私のストーリーはあくまでも当事者のうちの一例でしかない
②同じLGBTQ当事者でも一人一人全く違う悩みや不安、問題を抱えている
③私は社会的にはとても理解されやすい環境の下で生きてきた
④私は周りの人に恵まれているし、みんな大好きだ

これらを前提に読んでほしい。


「男の子の遊びが好き」 -0〜6歳-

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幼少期は正直、自我というものも形成され始められる前なので自分の性別がどうこうとかは関係なかった。それでも外遊びや道具を使う遊びなどでも、どちらかと言うと"男の子"が好む遊び(野球、鬼ごっこ、コマ、迷路作り、工作、等々)を男の子たちとしていた気がする。見た目に関しては小さい頃は髪も長かったし、服装も女の子だった。ただ、写真のように、歳を重ねるごとに服装は変わっていった。

ちなみに初恋は同じ保育園に通っていた女の子だった。その子の周りをいつもうろちょろしていた。


「友(とも)は女なんだから女子と遊びなよ」 -6〜12歳-

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6、7歳になると、今後社会に適応していくために用意された学校という枠組みの中で生きていくようになる。その中でLGBTQ当事者が最初にぶつかる壁は『自我が芽生えてきた頃、男女で分けられるという違和感に気づく』だと思う。

「男の子はこっちー、女の子はこっちー」
「男の子と女の子は一列ずつに別れて、あいうえお順/背の順で並びましょう」
「体育着、更衣室、移動教室、水着、プール、性の授業、、、」

ただ、それらが当たり前のように指示される環境だったけど、小学一年生の頃なんて性のことだけでなく、社会のこともそれ以外のこともまだまだ何も知らない。だからこそ、”私の場合”は特に疑うことなくそれらが自然なこととして従っていたのではないかなと思う。

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確かにどこかで違和感はあったかもしれない。だけど、そこまで明確な「男だから/女だからこんなことが問題」という認知があったわけではなかった。けれど、記憶を辿って考えると、自分が他の男の子たちと違うんだと気づいていったのは小学5、6年生になってからの頃だと思う。それは身体の発達含めて、自分自身や周りが思春期という時期に入っていったこともあるかもしれない。

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今までは気にならなかったようなことが気になり出した。それが決定的だったのが、「友は女なんだから女子と遊びなよ」と言われた時だった。今思い返すと、その一言は私の心を傷つけた。仲間外れにされた、というのもあるし、自分のことを否定された感じだ。そして「お前は男の仲間じゃない」とレッテルを貼られた私はそれを機に女子と遊ぶようになった気がする。

けれど、自分で言うのもなんだが私の運動神経は一つ抜けていたので他の女子と遊んでも全然楽しくなかった。本気で球を投げると怖がられるし、バスケなどをしても勝ててしまう。本当は目一杯遊びたいけど、それが出来ていたのは男子と遊んでいた時。だから自分が楽しくなるように遊んだりしたこともあったけど、結局はどこか孤立していたと思う(集団の中で過ごすのだから自分勝手にやっていたら孤立するのは当たり前だが)。そして自分を何処かで気を使わなければいけない、以前よりも上手く表現できなくなった私はそのうち小学校が楽しいと思うことはなくなっていった。そんな記憶がある。

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あの男女(おとこおんな)気持ちわりぃんだよ -12歳-

これは小学校卒業後、元同級生から言われていたらしい言葉だ。『友が違う中学校に行ってからもう全然関係ないのに「あの男女気持ち悪いんだよ」って言ってたんだよ。それ聞いたら悲しくなっちゃって。』ってたまたま遊んだ女の子の友達から聞いた。

それを聞いて「そうなんだー。」と笑っていたが、自分の恋心がバレていたのかとわかり、「わかりやすかったか」と反省していた。なぜかそこまで傷付かなかった。それは多分もう知らない世界のことだから現実味がなかったのだ。そしてその頃、私は新しい生活を楽しんでいたのもあると思う。

違う学区域に通っていた私。その中学校に行って本当に良かったと今でも胸を張って言える。それくらい、環境に恵まれていたのだ。


定着した『友近』というキャラ -13〜15歳-

ありがたいことに、中学生になった私はボーイッシュでカッコいいキャラというポジションに定着したのだ。

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その中学校は区立の中学校であったけれど、隣接している小学校からほぼそのまま上がってくるので、95%以上がすでに知り合いという超アウェイな空間だった。無論最初の1週間は本を読んで過ごしていたが、段々とみんなと打ち解けるようになって本性が段々と出ていくようになった。

そうして学校で一躍うるさい人間になったわけだが、そこでラッキーだったのが、珍しいタイプの人間としてのポジションを確立できたことだった。「サッカーをやっているボーイッシュな子」である私は何かと「友近だからしょうがない」的な目線を向けられるようになった。(もちろん当時はそんなブランディングを、、、とかいう頭もないので、今思い返してみて発見した要素である)

もちろん普段の生活には問題はなかったけれども、体育の授業や制服など、「女子」という枠で区切られるのは抵抗はあった。例えば、体育の際に更衣室で着替える時は必ず奥の方のみんなから隠れられる位置を陣取り、すぐに着替えて出ていく。そうやって更衣室にはなるべく存在しないようにしていた、もしくはなるべくみんなの着替えは見えないよう目線を意識していた気がする。

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そういう見えないところで自然に男性的な行動をしていた私だが、表面では女子の枠に収まって行動していたと思う。けれどもしつこいようだが、有難いことに私には「友近」という特殊なポジションがあったのである程度の女子枠から外れる行動も見逃されていた。

例えば、昼休みの遊び方。その中学校では「男子は外、女子は体育館で遊ぶこと」というルールがあり、女子は外遊びが出来なかったのだ。背景には恐らく校庭が狭かったから生徒全員が遊んだらカオスになるということもあったと思うが、とりあえず女子は体育館、という感じだった。

けれど、我慢ができなかった私は3年生になったある日、とうとう仮説を立てたのだ。『体育着で遊んでしまえば分からないのではないか!』と。

そう思い立った私は、その日の休み時間から体育着に着替えて遊ぶようになった。そしてだんだんと体育着に着替えるのも面倒になっていった私は女子の制服のまま外で男子とサッカーをするようになっていった。校庭が校舎の目の前にあるので職員室からも丸見えだったと思うのだが、なんとそのまま卒業式までやり過ごしたのだ。(卒業してから元担任の先生と会った時、「女子が外で遊んでいるぞ」となったけれど、誰だあれはとなった時に「友近だ」となったから「その方が男子もちょうど良いだろ」とそのまま流されたと聞いた。当時の先生方には心から感謝しかない。)

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本気でサッカーやりたい -15〜18歳-

中学生時代は本当にサッカーにどっぷり浸かった生活をしていた。練習がない日も友達と集まって足技をしたりサッカーしたり。そしてそんな環境を与えてくれたチームや家族、周りの人のおかげで、少しはサッカー選手と言えるほどに成長していた。

そうしてさらなる成長を求めて進んだ高校では寮生活だった。そして当たり前ながら、女子サッカー部だ。そこでは思春期であるからこその性の悩みとか葛藤とかあったはずなのだが、私の場合全てのエネルギーがサッカーに注がれていたため性の問題に関してはあまり記憶がない。どちらかと言うと女子サッカー部と言う肩書きが自分の肩書きだった。これが当時私のアイデンティティだったのだ。

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「めいみはメンズ?」 -18〜20歳-

大学生になった私の性自認は「メンズ」というやつで、その表現は大学のサッカー部に入ってから知ったものだった。

「メンズ」という概念については、定規で測ったような「ここからここまでに当てはまる人がメンズ」という定義はない。むしろ「メンズとは?」とキッチリと説明できる人はあまりいないと思う。私自身もそうだ。

「メンズってなに?」と聞かれると漠然的に、「見た目自分みたいな男、心も男で付き合う対象も女性の人かな」と大体答える。ただ、実際にはメンズ=トランスジェンダーとは一概に言えない。LGBTQという言葉はある程度、カテゴライズというか「枠」が決まっているけれどメンズというのは「概念」のような認識の方が近いかもしれない。

今までは特に名前のなかった自分の性のカテゴリに名前がついた感じだった。そうか、「自分はメンズというのか」という認識が出来たとき、私は晴れて女子ではなくなったのだった。

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そうしてメンズと意識するようになってから、「こういうのでいいんだな」と、私は以前よりもっと男性的な自分を意識するようになった気がする。そして周りにもメンズだったり手術を考えるFTMと言う人たちがいることを知り、「あ、そんな方法もあるんだ」とだんだんと性について考えていくようになっていった。

そして大学2年目(19歳)の頃には手術を考えるようになっていった。

「メンズがない」 -20歳/アメリカ-

そうして20歳を迎えた自分はアメリカにいた。話の流れは関係ない。笑
俗にいうサッカー留学ってやつだ。

日本の大学にいた2年間自分の信じていた性が、他国では存在しないことを知ったのがアメリカに渡ってからだった。

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それが判明したのは、「Mei, do you have a boyfriend in Japan?(めい、あなたは日本に彼氏がいる?)」と聞かれた時。お付き合いしていた方がいたので、「Yeah I do, but girlfriend. not boyfriend(うんいるよ、でも彼女だよ、彼氏じゃなくて)」と答えたら、「Oh okay, so are you lesbian?or you can go both?(あー、そうなんだ、じゃああなたはレズビアン?それとも男と女両方いける?)」と聞かれたので、「Nooooo, I'm not a lesbian, I only go for girls(違うよーーーーー、自分はレズビアンじゃないよ、好きなのは女の子だけだよ)」と答えると、その子は「??????」となったので(女の子である自分が女の子を好きだと言っているのに、レズビアンということを否定したので当たり前である)。加えてこう続けた「do you know mens?(メンズって知ってる?)」そうすると「yeah? guys? (もちろん?男の人たちでしょ?)」という反応だったので、実はね、日本ではね、、、と、かくかくしかじか説明する。もちろん当初はそんなに英語を流暢に喋れないので、概念を説明するのなんて難しい。その子は「なんとなくわかったよ」と言ってくれたのだが、その時に私はメンズという概念が通用しないことに気づいたのだった。

その後も、最初の方はそういった話になった時に「実は日本にはね、こういう概念があって、かくかくしかじか、、、」と都度説明をしていたのだが、段々と『宣教師でもないのにこれ伝え続けるのだるいな。。。』と感じるようになった。

LGBTQnoteブログめいみ①

そして、ついに説明を続けるのが面倒になった私は、いつの日かレズビアンとなっていた。(めんどくさいが勝った)


「全然胸とか隠さないし髪長いじゃん」 -20歳/アメリカ-

これもまたアメリカに行って衝撃を受けた風景の一つだ。

メンズという概念がないにしても、もちろん向こうにも自分のようにメンズライクな人たち(男の子っぽい人たち:トムボーイとも言う)がいる。

ただ、自分が行った大学には、自分のように胸を隠したり、髪が短いという見た目上の特徴を持ったトムボーイはいなかったのだ。みんな男性ものの服を着るし振る舞いや行動もまさにメンズだ。だけど、一切その子たちは胸の膨らみを隠そうとしたりしないし、髪も長い。私の中ではメンズというのは身体の女性的な部分を隠すことが当たり前だったのにそれがない風景に衝撃を覚えたのだった。そして私も胸を隠したり腰回りのラインを気にしなくなった。

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「どんなに男性ぶっても身体は女性サイズ」 -21歳〜/アメリカ-

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これも私がメンズとか性について拘らなくなった理由のうちの一つだ。いくら服装や振る舞いが男性寄りでも、現地での私のサイズはあくまでも女性でしかなかった。幸い167cmあるので、小人とまではならなかったが、向こうでの男性像というのは体格もデカければパワーも日本とは桁違いだ。そしてかわいい女の子たちは映画のヒーローでいそうな筋肉マッチョで高身長、男性ホルモンの塊が大好きだ(変な意味はない)。となると、いくら頑張っても167cmで体格も並の私が向こうの男性と同じ土俵で勝負だなんて武が悪すぎるのだ。そして私はアジア人。人種で分けて考えるとかはもちろんない。だけど、やはり恋愛となると簡単ではない。気づくと私のポジションはクレイジージャパニーズ、もしくはNINJA(忍者)というギャグ的ポジションとなっていた。(そういう振る舞いをしていたので自業自得?ではある)

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だから、メンズという概念だったり、性別や恋愛のことに関して私がなれない自分になるのを考えるのは諦めたのだった。

結構こういう感じで性の自認なんてフラフラしている、私の意思なんてこんにゃくほどに柔らかい。

「いや、彼氏じゃなくて彼女います」

以前は「どんな男の子が好き?」「彼氏はいる?」という質問に対して「いえ、私は女の子が、、、」と、質問を否定した上で自分のことを答えることができなかった。どこかでやはり(戸籍上?)女性が女性を好き、というのに引け目を感じていた部分はあったからだ。だから自信を持って「自分はこうだ!これが好き!」と堂々と言えなかった。

だけど、時の流れや異なる国や地域で色んな人に出会ったし、色んなことを見てきた。そんな生活を数年ほど送った経験により、自分自身をありのまま受け入れることができるようになったし、自分自身を表現する強さも身につけることができた。

そして、日本に帰ってきてから色々な場所で色々な人に出会ってきたけれど、やはりどこかしらのタイミングで聞かれるのは「彼氏とかやっぱいるのー?」「女の子にも好かれるんじゃないのー?」といった質問だ。だから「いますよー、彼女ですけど」とか「自分は女性好きですよ」と答えるのだけれど、そうするともちろん驚く人もいる。けれど最終的にはみんな普通に受け止めてくれる(中には私も実はそうだよーとか、友達でいるよーと言ってくれる人もいる)。

実際にこっちがあっけらかんとしていれば向こうもその空気を感じて普通に質問してくれたりもする。

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「そもそものカミングアウトをした理由は彼女を自慢したかったから」

冒頭では偉そうに”21歳の夏、私は〜”とか言っていたが、正直カミングアウトに大それた理由なんてない。

単純に彼女を自慢したかった。ただそれだけだ。

彼女を自慢するにはまず報告をしなければいけない。となった時に、取る選択肢はただ一つだ。カミングアウト。そう、私は当時お付き合いさせていただいていた彼女を自慢したいがためにカミングアウトをした。それくらい幸せだったのだ。とは言ってもアメリカに行っていて性の表現や自分の表現を知る、という前段階を通っていなければそれも出来なかったとは思う。ちなみに色んな人に伝えたかったのでこの時はFacebookの投稿を選んだ。(もはや広告。笑)

カミングアウトとか、公の場で発言する、といった行動を取った時に外の人からは、「そこまでしようと思ったきっかけってあったりするの?」と聞かれることがある。「大志を抱いて社会に何か訴えたいものがあるのか?」といったようなニュアンスで。

「そうだよ。」とか平気で言ってしまいそうなところが性格上あるけれど、正直なところ、私はそんなに社会の課題をとかそういう大きいゴールを見据えて行動出来るような出来た人間ではない。プランなどなく、目の前を転がっていったボールを追いかけてしまうような近所のワンコと変わらない。だからカミングアウトをしたその時も「彼女が大好き→嬉しいが溢れる→溢れた」といった感じだった。当時はそれくらい夢中だった。

周りがしないようなことをした時、称賛されるか非難されるかのどっちかだ。今回はたまたま追いかけたボールの行き着いた先が違うところへ繋がってた、それだけだった。

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「めいとは子どもができない」

これは私が生きてきた中で1番ショッキングな出来事だったし、これから先も一生心に残り続ける言葉だ(変な意味ではなく教訓として)。

この言葉を言われたのは、彼女との別れ話の中で、本当に結婚を考えていた相手からだった。(里子や養子、精子バンクとかは置いといて)子どもが欲しい人からしたら当然の話だし、もちろん別れを告げられたにはそれ以外にも私自身に問題があったからことも考えられる。

ただ当時は周りも見えていないので、「自分の身体が男性だったら違ったのかな」と、その言葉をそのまま受け取ったし、実際に自分がどうしようもできないことを知る瞬間がこんなにも辛いものなのか、とその事実を受け入れるのに時間がかかった。

しかし人間簡単なもので、時間が経てば記憶も薄れる(私が単純なだけかもしれないが)し、嫌味などなしに別れを選択した相手が正しかったと心から思う。そして、その言葉や別れが自分自身のあり方を考えるきっかけになったので今は本当に感謝している。

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母へのカミングアウト とアウティング

カミングアウトやこうしたLGBTQの話で必ず出てくるのが周囲の人との関係。実は公の場でカミングアウトをしたのと、家族にカミングアウトしたタイミングには時差が結構ある。

これも実はの話だが、私の場合はカミングアウトを私が最初にしたのではない。バレたのだ。笑

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それは当時中学生の頃、まだまだ門限や行動報告など、親が管理する中でも自由にやらせてもらうことを学びながら育つ時期。どうしても当時お付き合いをしていた子と会う時の親への行動連絡が白々しくなってしまっていたのだった。本当に隠せない。だからある日問われたのだ。「〇〇ちゃんと付き合っているの?」と。母親の感は鋭い。そして嘘をつけなかった私は「うん、、、」とそれ以上何も言えなくなったのだ。

元々恋愛の話をすることはなかったが、そこから数年間、恋愛の話はタブーの空気?自分からは決して触れない。母もあまり触れないトピックになった。

そして大学の頃、母からまた聞かれたのだった。「〇〇さんと付き合ってるの?」それは当時お付き合いさせていただいていた方の名前だった。一気に血の気が引いたのを覚えている。どうしてそれがバレたかというと、他の親御さんからのアウティングだった。「めいみちゃん絶対その子と出来てるよ」と母に言っていたらしかったのだ。その親御さんはそういった世界に慣れていて普通の感覚で話したかもしれないが、私の母はそういう世界を知らない人だ(一度私が中学生の時に触れているが)。ましてや子どもを宝のように思っているとても純粋な人だ。だからこそ自分はそこの部分を自分なりに守ろうとして来たのに何てことをしてくれたんだ。と当時は心から恨んだ。それが私がされたアウティングだった。


母との関係 

バレた/カミングアウト/アウティング、、、色んな方法で母は私の恋愛事情について知ったわけだったが、それを普通に話せるほど簡単なものではなかった。恐らく私の場合は友人や周囲よりも、家族との関係の中で自分の性について表現することの方が難しかった。それは自分がその話をすることが母親を傷つけることだと知っていたから。

もし当時母に余裕があったらまた違ったかもしれない。けれど、当時母は抱えていることが多すぎた。いつもギリギリのラインで頑張っていた。母子家庭ということもあり、経済的、世帯、仕事の問題を全て1人で抱えていた。だからこそ、「大切な子どもが、、、」というイレギュラーの塊みたいな問題が降って沸いた時、それと向き合うだけの力はなかったと思う。

ところが何にもわかっていない私は、家族だからこそわかってほしかった。と何度も自分の性について話そうとしたのだ。だけど、それは母の心を削っていただけだった。そしてその話題に触れるたびに母の身体が拒否反応を起こすのを目の当たりにした。そして情けないことに、そういう姿を見て初めて、母の都合を気にするようになったのだ。

私の場合は、自分の性の話は周りには話せても一番近くの人には話せなかった。それがつい最近(2018くらい)までの話。そして時は流れ、色々あったけれど今は私の活動を陰ながら応援してくれている。ここまで育ててくれ、大切にしてくれている母には一生頭が上がらないし、言うまでもなく私は母が大好きだ。

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LGBTQ当事者として 

2018年、カミングアウト・フォト企画「OUT IN JAPAN」というプロジェクトに参加してみないか?と現S.C.P.Japan代表の野口さんからお声がけを頂いた。目立つこと大好きな私はもちろん、「ぜひ参加させてください」と言っていたが、結局表でそうした活動をすることが家族にどんな影響を与えるのかと考え時、こわくて出来なかった。

だけど、そうした活動は私の事情など関係なくどんどん広がっていく。それを感じて私は焦った。それは私が、OUT IN JAPANというプロジェクト、表に出ていくチャンスを逃したからだ。私は「本当は出来たのに、自分以外の人の理由でチャンスを逃した、、、」そう感じてしまっていたのだ。

その頃から結局自分はどうしたいのか、以前よりも真剣に考えるようになった。

するとやはりその頃から、自分の中から溢れてくる自分を表現したい欲が止まらなくなり、少しづつではあるが、YouTubeチャンネルやイベントなどで自分の話をするようになった。どんな形であっても自分のことをいつでも表現したいと思った。

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なぜ私はLGBTQスピーカーになったのか? 

そして最近ますます私が表舞台で活動するようになったのには、大きく分けて4つの理由がある。

①目立つのが好きだから
②自分のことを自由に表現したいから
③パブリックスピーカーになりたいから
④LGBTQであることが私の武器だから

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①まず第一に、本来の私は目立ちたがり屋だ。人前に出るのも好きだし、注目を浴びるのも好き。

②そして彼女のことを自慢したかったがためにカミングアウトをするくらい自分の好きなことを好きなように表現していたい人間である。そのためには自分自身も曝け出す。

だから表に出ていくというのは必然的な選択だった。

③そして以下はその他の理由となるが、その1つとして、私が表舞台で”話す”ようになったのは、最終的に目指しているところはパブリックスピーカーになることだから。

私はパブリックスピーカーという存在に憧れている。初めてその存在を知ったのはアンソニー・ロビンズがTEDで話している動画を見た時だ。こんなにも自信が溢れていて、言葉一つ一つにパワーがある、そして言動一つ一つが会場の空気を操ることができる人がいる。鳥肌が立った。かっこいい、こんな世界があるんだ。そう思った。それが私がスピーカーを夢見た瞬間だった。元々好きだった”目立つ”、”人前に立つ”に、さらに具体的な姿が加わった感じだ。

④そして最後の理由、「これが自分の武器だったから」

言葉のままだ。私は少なくとも私の全人生(29年)を通して私の性と生き方に向き合っていきている。そんな経験を積んできた私の話に価値がないはずがない。自分にしか出来ないことをする。

あとはそれらを掛け合わせるだけで「LGBTQ」×「スピーカー」という人物が誕生する。今の私はこれで良い。LGBTQ当事者としての体験や経験、考え方をスピーカーとして話していくことに意味がある。

私はアクティビストではない 

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かと言って私は社会的な役割とか、今苦しんでいる人たちのために、という行動ができるという人間ではない。と言うよりそういう背伸びをしようとして出来なかった。

少し前まではLGBTQを公表してそれを発信してたら、そういう活動をしている人なんだと受け取る人もいた。私自身もそういった活動をしている人たちが身の回りにいるので、何となくLGBTQ活動を意識するようにはなっていった。だけど、元々のカミングアウトの背景も背景なので、そんな自分がそこから社会的な役割を意識するというのもやはり違和感があり続けた。

私の活動の形 

一方、LGBTQ当事者としてスピーカーをさせてもらう機会が増えて、ジェンダーに関する研究・実務をされている方と一緒に話をする時間も増えた。その中で私が改めて感じたのは、ジェンダーの話はとても奥が深いということだ。

もちろんLGBTQ当時者として、私なりの捉え方・考え方、得た体験や経験はある。なので私のライフストーリーを元にイベントに登壇することもある。一方、私が持っているアイデアと言うのは学問的な範囲とはまた異なるので、ふだん教育機関などで研修という形で登壇させていただく際は、ジェンダーの専門家である野口さん(S.C.P Japan代表)と一緒に行わせていただいている。

例↓


悩む人を孤立させない

私にできることは自分という人間の在り方を伝えること。けれど、「社会を変える」ためにLGBTQ当事者としての運動を積極的にしていくのは私のすることではない。

街中で困ってそうな人がいたら声をかけるし、誰か泣いていたら自分も悲しくなる。誰か大切な人のために死ねるかと言われたら「はい」と言える。

だけど、LGBTQで困っている人たちがいて
「自分は表舞台でLGBTQの発信をしている。だからその困っている人たちのために自分が率先して社会に訴えかける活動をしていくんだ」という考えはない。

そういうことを言うと、たまに「無責任」とか「声を出せない人のために届けようとかないの」と言ってくる人もいる。だけど、正直、それを誰かに頼る方が無責任ではないかと感じる。

本気で変えたいなら自分で動けばいい。いつまでもLGBTQが守られるべきと思っている人たちは別にそのままで良い。自分が変えてやるんだ、と本気で思って本気で戦っているのなら自然にそこに賛同者は集まるだろうし、そんな人がいるからその熱に動かされる人たちがいる。それこそ女子サッカーの下山田選手とか典型的な例だ。下山田選手のすごいところは「自分たちが当たり前を壊してやるんだ」という熱を持って下山田選手自身が日々活動している。だからこそ、そこに人は集まるし、賛同者も増えていく。

それに最近はそうしたジェンダーに対する取り組みを進めている企業や団体・組織、学生たちもたくさんいる。もちろんそういった人たちを束ねる?求心力となる人物も今後必要になるだろうけど、私のLGBTQ当事者としての活動はそこを目指しているわけではない。

私の発信はあくまでも性やマイノリティを理由に悩む人を孤立させないためのものだ。

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LGBTQって呼ばないで 

個人的に「LGBTQ当事者」と言う肩書きがつくのは私は好きではない。

私自身「LGBTQスピーカーのめいみです」と名乗っているので、意味が分からないかもしれない。けれど、私がLGBTQスピーカーというのはあくまでもわかりやすく伝えるためであって、私がLGBTQという人間ではないからだ。私はあくまでもめいみであって、「めいみはLGBTQ」ではない。わかりやすく伝えるためにこんな話がある。そしてこれは実際の話だ。

【友達のマルティン】

ある日マルティンとランチを食べていた時、彼はふと言った。

「僕はゲイじゃないんだ。」
「。。。」(バリバリのゲイの君が何を言ってるんだ。と最初は思い)

「どういう意味?」と聞くと、彼は話し始めた。



「僕はマルティンと言う名前でプエルトリコ出身の19歳だ。
今はスプリングフィールドのアメリカンインターナショナルカレッジに通う大学生3年生で、専攻は政治学。将来は政治に関わる様な仕事をしたいんだ。
それと僕の好きなものはスターバックスのコーヒーで、家族はクリスチャン(キリスト教徒)、生きることに情熱を持っていて、誠実で、優しい、ジョークが好きで、読書家でもある。なんなら3カ国語は喋れるし、旅をするのも好き。

僕っていう人間はこんなにもたくさんのことを持っているんだ。


なのに人は僕のことをゲイとして見る。
これだけ僕は沢山のものを持っているのに
僕のイメージはゲイ。それだけ。

誰も中を見ようとしてくれない。


それが悔しくて仕方がない。」



私は言葉が出なかった。


マルティンが言っていたように、
マルティンとはプエルトリコ出身のとても優しく、勉強も出来て、将来は政治家になるという夢を持った誠実な人間だ。ゲイというのはあくまでも彼の内面の一つでしかなく、全てのシチュエーションでマルティンはゲイの人ではない。恋愛の話になった時にゲイという枠組みに当てはまるというだけだ。

私自身、LGBTQ当事者としてイベントで話したり、自分自身のことをそう表現することもあるけれど、LGBTQのメイミではない。
元アスリートで、休日には人並みに大好きな外に出て散歩したり本を読んで人に会いにいく。旅や音楽、楽しいことが大好き、そして好きになる対象が女の子なだけだ。

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【LGBTQ×多様性】 --

LGBTQというのは色々な呼び方があるが、詳しくは下にリンクを載せるので気になる方は読んでみてほしい。

性とは本当に多様で、全く同じという人間はいないのではと思うくらい個々で違ったアイデンティティが存在する。

それらを一括りに理解しようというのは不可能なことであって、烏滸がましいことである。それは私自身にも言えることで、当事者だからこそ、当事者の気持ちがわかるというわけでもない。だからこそ、違いを受け入れる、理解しきれない部分があることを理解する。そういった感覚を常に持ち続けることが必要になる。全く理解しようとしない理解できないはただの怠慢であるが、理解しようとするができない、となるのはある意味当たり前のことだ。

日本という国で育ってきた私たちはアメリカや欧米諸国と違い、違う存在がいるのが当たり前、という文化にはまだ至っていない。そんな中で、「人と違う」ことで阻害されてしまう人たちはたくさんいて、マイノリティーと呼ばれる人たちが存在するのはLGBTQの問題だけではない。

これからの日本はそう言った違いを受け入れる国になっていく必要があるけれど、もしかしたらまだ時間はかかるかもしれない。

私が伝えられるのは恐らく「多様性を理解していく」それに携わる事柄だ。たまたまツールがLGBTQだったというだけで、私はこれからもそれを使って発信していく。

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最後に

こうしてLGBTQに関するテーマで人前で話をさせてもらっているわけだが、現実問題として、私の周りの人みんなが問題なく私や私の行動を受け入れている(消化できている)わけではない。

今では私のこうしたLGBTQに関する活動を陰で見守ってくれている母だが、いきなり理解をしてくれたわけではない。母にとって、私は唯一の娘であることには変わりない。そして血の繋がった子ども。そしてこれまでの時代の流れや背景。そんな中でも必死に生きてきた母だからこそ、母にとっては私の性のあり方をポジティブに受け止めるのは簡単ではないと思うし、受け入れられないこともあると思う。そして、いまだに色んな葛藤があると思う。

そして私自身も、今はこうして性に関しては笑いながらだったり普通に話せるようになったけれど、元々こんなにオープンにできる話題ではなかった。色んなところで傷ついたし、実際に死のうかなと思ったこともある。何より私は家庭内でのこの話題は恐ろしくこわかったものだ。


人生を通して辛い時期や上手くいかない時期なんて沢山ある。けれど、その中でも信念さえ持って生きていけば必ずどこかで何かが変わる。それを期待せずにひたむきに生きていると、自分の境遇に感謝が出来る日が来る。

私にとってそれを教えてくれたのが性であって、それをこれからも学んでいくのが性だと思っている。

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最後まで読んでくださった方へ

最後まで読んでくださってありがとうございました!!

ちょー長文になってしまいましたが、これを読んで少しでも「こんな奴もいるんだ」とか「私/俺もこのままで良いんだ」とか気持ちが楽になったり、前向きになった方がいたら嬉しいです。

もし孤独や不安を感じてしまった時も一人ではないことを思い出して欲しいです。わかってくれる人は必ずいるから。

共に自分が自分であることを楽しんでいける。そんな環境をつくっていけると信じているし、LGBTQとか言っていますが元々そんな壁なんかないと思っています。

ニュースなんか見てるとLGBTQの尊厳は守られるべきだとか色々言われていますが、元々対等な立場に守る守られるなどありません。私たちは私たちが思うように生きればいいし、私たちの文化だってそのうち世の中の文化に浸透していきます。

だからこそ私たちの世界を臆することなく発信すればいいし、胸を張って発言していきます。だけどまだまだ個々の力では弱いし、何も出来ません。なので、もし私の考え方や生き方に共感していただけたら、コミュニティでもなんでもそういう場をつくっていきたいと思うし、少しでも誰かの人生を肯定する存在を一緒に目指していけたらと思います。

とは言っても私はせいぜい社会人1年目の未熟者なので、ツッコミどころも万歳かもしれないです。なので、何かアドバイスや知恵などあればどんどんください。

これからもめいみをよろしくお願いします。

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