恐怖と憤怒の発作

 この辺境では全てが貧しい。粗末な板葺きの小屋を寄せ集めたような村の中で、人々は全てのものを胡乱げな目で見ている。彼は別の村からやってきたよそ者で、流れの傭兵を自称する男だったからまさに胡乱そのもので、一部の商店主の他は極力彼に関わらないようにしていた。

 そんな中、一人の男と、男の操る巨大な何かが村に現れた。男の方は岩を削りだしたかと思うような魁偉な風貌で、身の丈は十フィートに達しようかという巨躯であった。彼の乗騎は嘴と翼、羽毛を持っていたが、明らかに鳥ではないことは誰の目にも知れた。それは、男が鞍を離れてどこかに消えると、その巨きさと恐ろしい姿に合わない美しい声で歌いだした。鳥の声にも人の声にも思えるその旋律は不思議な心地良さを持ち、切々とした調子で歌を紡ぐ。村人が遠巻きに見る中で、歌声に惹かれたものか一頭の馬がそれに近付いた。集まった人々は笑みを浮かべていた。彼もその中に居た。そして……それが素早く飛び上がった。

 それは近付いた馬の頭を齧りとり、冒涜的な言葉を吐きながら集まった村人たちの頭上で旋回し始めると、噛み砕いた馬の頭部を吐き散らして、地獄に響くような凄まじい声でげらげらと哂い声を上げた。その次に起きたのは混乱で、血や脳漿に塗れた人々は我勝ちにと逃げ出した。それは悲鳴を上げて逃げ惑う者のうち、若い女に目をつけたようで、執拗に追い回しては悲鳴を上げさせ、その悲鳴を真似てまた哂った。

 彼は、何故自分が逃げなかったのかは分からなかった。竦んでいたのかもしれない。ただ呆然としていたのかもしれない。しかし、追い回されていた女が自分の方に向かって来たとき剣を抜いたのは、確かにそうしようと、そうしなければならないと思ったからだった。

 それが小首を傾げてこちらに興味を示したとき、彼はそれの眼に狂気の悦びを見た。彼はそれの眼に魂を焼き尽くす憤怒を見た。彼はそれの眼に絶望より深い悲哀を見た。彼はそれの眼に全てを嘲弄する嗜虐を見た。彼はそれの眼に映る自分を見た。彼はそれの眼に映る自分の眼を見た。彼はそれの眼に映る自分の眼に映る自分の姿を見た。彼は、恐怖して逃げ出した。

 そして彼は、夜毎魘されて飛び起きる。飛び起きる度に瘧にかかったように震える自分を呪っている。

 それから一月後のその日も彼は酒を飲んでいた。最後の硬貨をすでに支払い、彼の懐はもはや空っぽで、今日の宿代を払う当ても無い。ほんの数枚の硬貨のために色々なものを殺し、色々なものに殺される人間もこの辺境には多く、彼自身もその一人であった。今の宿では何度か用心棒まがいのこともしていたが、どうやら今度は自分が殺される番らしいと自嘲する。

 殺される前にここから消える算段をすべきだろうとも思うが、どうもそんな気になれなかった。一ヶ月前に見たあの恐ろしいものが、まだ心に重くのしかかっている。喉元を握り潰されるような、発狂寸前の恐怖を振り払う様に酒を呷るが、そんなことであれを忘れることはできないと自分でもわかっていた。

 金が尽きて三日目の朝に宿を追い出された。どうせなら殺してほしいと試しに言ってみたが、一発殴られるに終わった。
 その日のうちに村を出たのは特に考えがあった訳ではなく、ただ通りを歩いていたら村を出ていて、そのまま歩いていたら東の方に道が続いていたからだ。もう何もかもが厭だった。厭だと思うことすら厭だった。

 いつの間にやら日が暮れかけていた。次第に濃くなる闇に尚一層身を震わせ、己の立てる草擦れの音にびくびくとし、木々の向こうに目を凝らし、前方に何かを見たと思うと方向を変えた。もはや元の道も分かりはしない。
 不意に明かりが見えた。闇の恐怖から逃れるようにそこへ向かった彼はしかし、明かりの輪の中が見えるとぴたりと歩を止めた。焚き火の周りに三人の男が車座になり、何やら商家への押し込みを企てているらしい。彼はじりじりと後退すると、そこから立ち去ろうとした。背骨を掴んで放さない恐怖にきつく瞼を閉じ、荒い呼吸を無理に押さえつけていたが、閉じた瞼の裏にあの眼がちらつく。視線を感じて振り返るが何も居ない。あの美しい歌声が聞こえる。あの下卑た大哂いが聞こえる。哀愁を歌う。げらげらと哂う。歌う。哂う。眼が。眼が。

 そのとき、彼は耳を聾せんばかりの哂い声に振り返り、脂汗の浮いた顔の黄色く濁った眼で鴉を見つける。倒木の枝の先、ほんの三フィートも無いようなところに鴉が居り、ガアと啼いた。その鴉を見た瞬間に、どうしたものか彼は怒り狂った。怒り、猛り、憤激にかられ、ただの一太刀で鴉を斬り捨てた。勢い余って倒木に喰い込んだ剣を力任せに引き抜き、二つになった鴉をくしゃりと踏みつけた。怒りに染まった夜闇の中に、一際黒く血の色が混じる。
 彼は怒りの赴くままに焚き火の照らす盗人どもの所まで戻ると、その三人を抵抗を許すことなく斬り捨てた。呼吸を荒げて手の中の剣を見つめ、明瞭さの戻って来ない頭で物も考えられず、ただただ脚の動くままに森の奥へと分け入って行った。
 その後の彼の行方は杳として知れない。

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