2021/01/09; 勉強から解き放たれろ!

「ほぼ日刊イトイ新聞」というウェブサイトに、「今日のダーリン」という糸井重里先生のエッセイが掲載されています。毎日、些細なことから想像を膨らます糸井先生の感性は、僕と同じ人間とは思えません。まさに世界の解像度が違うってやつです。しかも、1999年の開始以来、更新を怠った日は1日もないそうです。とんでもない人です、糸井先生。

さて、僕はこの「今日のダーリン」が好きで定期的に読みに行くのですが、本日の記事は「勉強」を題材としたものでした。今日はこれを読んで思ったことを書きたいと思います。下にリンク貼っておきますね。「今日のダーリン」は次の日のものが更新されると読めなくなっちゃうので、1/9の記事が読めるのは今日限定ですが。

※ 僕が糸井「先生」と呼ぶのは完全な独断です。尊敬の念を込めて勝手に呼ばせてもらってます。

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糸井先生の文章を僕なりに要約すると、次のようになる。

学校では、「勉強しろ」と与えられた宿題をこなし、テストでいい点を取れば「よく勉強したね」と褒められる。そこで得られるのは、単にテストで正解を答えるための方法であって、「学び」ではない。大抵の学校の勉強ではここに停滞し、つまらないものと思われてゆく。
ではいつ人は「学ぶ」方法にめぐり合うのか。それは「勉強」という枠組みを外れたときだ。大人でも子供でも、試験に出るとか関係なく、知りたい・憶えたいと思ったときに「学び」、習得していく。「いわゆる学校」の「いわゆる勉強」から解き放たれたとき、実はみんな「学ぶ」ことが大好きなんだと思う。

僕はこの文章を読み、自分の中の疑問が溶けていくのを感じた。僕の経験を、糸井先生が「君がそう思ったのはこういうことだよ」と的確に解説してくれたようだった。

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僕は大学で吹奏楽部に所属していた。真剣に音楽やってみたいな〜と思って入部したのだった。入学から卒業までそれなりに頑張ってはいたが、今思えば僕は、演奏に何らかの正解があると信じて疑わなかった。

僕は入部したとき、楽器にほぼ触ったことのないど素人だったから、周りの人たちは神様みたいに上手に見えた。下手くそな僕にとって、彼らは「正解を知っている人たち」だったし、楽譜は「正解の書かれた教科書」だった。僕はその正解をただ再現することを目指した。それはめちゃめちゃ楽しいと思えるものでは決してなかったが、いつか彼らに追いつけば、彼らのように心から楽しげに演奏できると思い、練習を重ねた。

しかし、僕は彼らに追いつくどころか、どんどんと離されていくように感じた。ちょっと近づいたかと思えば、彼らはもっと先へ進んでいる。何で追いつけないんだろう。何で彼らと同じ世界を見られないんだろう。考えても分からなくて、いつしか真剣に練習するのをやめてしまった。

結局、僕は彼らに追いつけないまま卒業し、就職した。楽器は続けたいと思っていたので、1人スタジオに入ってドラムを叩いた。好きな曲を雑に採譜して、誰に聞かせるでもなく、好き放題に叩く。そこには正解を教えてくれる人も教科書もなかったが、同時に正解そのものがなかった。初めて「音楽って、こんなに楽しいんだ」と思った。そして、僕が彼らに追いつけなかった理由は、音楽に1つの正解を求めていたからだったのだと、今更気づいたのだ。

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糸井先生の文章に戻ろう。糸井先生は、「勉強」という枠組みを外れたときに人は「学ぶ」、そして「学ぶ」ことはみんな大好きなんじゃないかと述べている。まさに、僕が初めて1人でスタジオに入ったとき、正解という呪縛を壊し「勉強」から解き放たれたのである。楽しいと思えたのは、その結果に他ならない。

部活をやっていた頃より、今1人でドラムを叩いている時の方が充実感があるのは何故だろうと思っていたが、糸井先生の文章を読むことでようやく納得して言葉にできた。ありがとう、糸井先生。

あぁ、今の気持ちでもう1度部活に入り直せれば、みんなと同じ世界が見られたのかなぁ...。

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