2020/03/13; 読み手と書き手の齟齬

こんばんは。連日の不規則な生活のため本日の起床時間は遅く、少し家の片付けを進めたら夜になっていました。書くことがなかなか見当たりません。
そこで今日は【面白い文章について本気出して考えてみた】やっていこうと思います。
まずはこちらの記事をご覧ください。

https://omocoro.jp/kiji/221749/

昨日「オモコロ」に掲載された記事です。
「オモコロ」とは、この記事のような不要不急の記事や漫画、音声をたくさん発信しているwebメディアです。あまりタメにはなりませんが、何より面白いので、私はよく読んでいます。

この記事を読んで、私の文章に何が足りないのか、一瞬で理解した気がします。私にこれを伝えるために、この記事が書かれたのではないか…?と思ったほどです。

私の文章に足りないのは…そう、想像力を掻き立てる工夫です。

私は、誰もが一目で分かる文章を書こうとしていました。そのためには誤解のない文章を書かなければいけないので、論理の飛躍がないかとか、そういうことを最優先に文章を組み立てていたのです。
そのような文章は、読み手が先を予想できてしまい、そしてその予想を裏切ることがありません。面白くないのも当然ですね。
これは、私が理系の人間で、これまで求められてきた文章がそういうものであったからかもしれません。

しかし、上の記事を読んで気づきました。書き手と読み手の“解釈の違い”こそが面白いのだと。

上の記事では、随所に書き手ならではの想像が散りばめられています。

『フルグラは偉大だ。「これさえ食っとけば大丈夫」という謎の確信がある。遠い未来、人類が宇宙に暮らす時代がやってきたとしても、ズボラな我々は相変わらずフルグラを貪り食うだろう。』

『なぜフルグラはうまそうに見えるのか。おそらくその秘密はパッケージにあると思う。みずみずしい状態の果物が前面に押し出されたパッケージ。これを目に焼き付けた上で皿に盛るからこそ、フルグラはうまそうに見えるのではないだろうか。』

こういう表現です。これらはいずれも、書き手と読み手で必ずしも共有できることではありません。読み手によって、意味がわからない人もいるだろうし、これに対するツッコミも多種多様になるでしょう。
つまり一読してよく分からなくても、読み手の想像によって自由に解釈して、全然構わないわけですよね。
あえて論理の流れを曖昧にしたり、書き手にしか分からないような表現をしたりすることで、読み手の「分からない部分」が増え、それが読み手の想像を掻き立てるということです。
説明書みたいで味がない文章と、面白い文章の違いが少し分かった気がします。

もちろん、読み手の「分からない部分」が大きすぎると、想像することさえできなくて、面白くありません。美術館で全然ワケの分からない絵を見てる時と同じ気持ちになってしまいます。
絶妙に「分からない部分」を残すことで、読み手が引き込まれていくのだと感じました。
思えば物語とかもそうですね。情景などを使って、読み手に登場人物の気持ちを想像させようとします。言葉でなんでもかんでも説明してしまっては、風情が失われてしまいます。

今後は、すっと伝わる文章よりも、皆さんの想像に任せるような文章が増えるかもしれません。徐々に味のある文章になっていきます。脱 説明書!

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