2021/08/28; 外国語を勉強する意味はなくなるのだろうか

近年、自動翻訳の技術がうなぎのぼりで、もはや外国語を勉強する意義は失われつつあるようだ。言語は意味を伝えるために発明されたものであるから、自分と相手が共通の言語を持たなくとも、自動翻訳を介して意味が伝えられれば万事オッケー、ということだ。ただ、これはいささか早計と言わざるを得ない。言語の役割は、意味を伝えることだけではない。

言語の最も重要な役割が、意味を伝えることであることは間違いない。しかし、ただ意味のみを伝える文章に価値はあるのだろうか。

人が発信する言葉とは、文意だけでなく話者の情報も少なからず内包している。例えば、人が言葉を発信するときの順序を考えてみる。
(1) まだ言葉ではない事柄を、人に伝えるため言葉にしたいと考える。
(2) 無限とある単語から、その事柄と似たものを選び出す。
(3) 選んだ単語を言語のルールに従って繋げる。
(4) 言語を発する。あるいは書く。
単語の選び方や繋げ方にはある程度の自由があるため、話者の経験や考え方などあらゆるものが影響し、無数の組合せを作る。その結果発される言葉はどんなものであれ、その話者でなければ、そのときでなければ言えない、非常に儚いものだ。中でも、選り抜かれた単語や文章のリズムなど、話者の情報を多分に反映した独自の表現が多くの人に感銘を与えたとき、その文章は名文と言われる。

つまり文章に価値を与えるのは、文意でなく話者の情報である。

自動翻訳は、人の言葉が持つ膨大な情報から、文意のみを抜き出す装置だ。意味を伝えるという点では非常に有用 (それ自体素晴らしいことではある) だが、文章の価値を左右する話者の情報を根こそぎ刈り取ってしまう。自動翻訳を通った言葉に、もはや価値を見出すことはできない。自動翻訳を使うということは、価値のない文意のみの言葉でコミュニケーションをするということだ。それでいいのか。いや、いいわけがない。

文意を取り出すことに特化した自動翻訳技術が発達したことにより、見つめ直されるべき言葉の価値があると思う。自動翻訳があるから外国語の勉強はやめよう、では文意だけしか伝えられない・理解できない。自動翻訳で誰にでも文意は伝わる、じゃあそれ以上の価値を伝える・理解するには?勉強し、自らの言葉で外国語を発するしかない。

私は、日本語でも外国語 (特に英語) でも、言葉の価値を理解できる人間でありたい。いくら録音の技術が発達しても、生演奏・ライブの価値が消えることはないように、外国語を学び自ら発信することの価値が消えることはない、と信じている。

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