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玉響

 ケラの鳴き声が暗闇を駆けた。この頃やけに早く伸びてくると父が愚痴を零していた雑草が私の足首をくすぐって、夏の夜を少しばかり弄ぶような気持ちになる。
ここは、私の故郷。『水』という字が付いているこの地は、地域的に有名な大きな川が流れているのだが、毎年夏休みになるとそこでの子どもの水難事故が後を立たず、川の方から吹いてくる湿っぽさを帯びた生温い風は、妙に不気味で昔から嫌いだ。

 そこに、その風の繊維を丁寧に一つづつ心ときめく色に染め上げるように、私の大好きな声がこもっていた耳に流れて弾けた。

 「また負けちゃった。今日は湿気も多いしあまり長く保たないね、花火。」

 声の方向へ目を向けると、そこには堕ちてしまった丸い灰から出る微かな煙を淋しげに見つめる恋人の姿があった。

まるで、ささやかな宝物を壊してしまった少年が、大切にしていたのに…と感傷に浸るようで、なんだかいじらしかったので、私は悪戯っぽくこう言った。

 「私は、線香花火がとても上手よ。ほら、今だってずぅっと点いているでしょう?昔おばあちゃんに、線香花火を長持ちさせるコツを教えてもらったことがあるの。」

 「そうなの?俺にも教えてほしいな。」

 彼はすぐに優しい瞳で私を撫でた。彼のこのとき私に抱いてくれている感情が、私が彼を一番に信頼出来る理由なのだと思う。

 「いいよ。まず少し角度を付けるの。45度くらいかしら。そうしたら真ん中の少し上を持って、そのまま絶対に動かないように気をつけたら、ほら。だんだん火の玉が大きくなってきているような…」

 …『だんだん大きく』?
 線香花火は通常なら、牡丹、松葉、柳、散り菊と形を変えていく。寺田寅彦は、「線香花火『備忘録』所収」という随筆で「線香花火の一本の燃え方には、序破急があり、起承転結があり、詩があり音楽がある」と書いた。
私達日本人の美意識がよく表れている、実に風情のある芸術だ。
そんな線香花火の起承転結の順序を乱すような方法は誰にも習った覚えはない。

 もう火をつけてから5分程経ったように思えるが、一向にパチパチと音を放つ光は消えそうにない。寧ろ、次第に火の玉が大きくなり、パチパチという音は大きくなってきているように思える。

 「本当だね。きっと、ずっと消えないよ。君を幸せな気持ちにする為にずっと傍で。」

 「え?」

 彼の言葉の意味が分からず悩んだその時、

 「あっ」

 私の線香花火の火が─────


*

 パチパチという音とともに、香ばしい匂いが鼻に漂ってきた。ガーリックの香りだろうか…?
霞んだ視界を徐々に開いている最中、料理好きの彼がガーリックオイルを作るコツを得意気に話していたのを思い出した。

 「あ、起こしちゃった?ごめんね。夜ご飯を作りに来たよ。今日は、ボンゴレビアンコ。」

 1Kの私の部屋、まだ少しぼやけた視線の先には台所に立ち、すぐにこちらに気付いたようにひょこりと顔を覗かせる彼の姿があった。

 この景色の方が、夢かと思った。

 最近、夢を見る度彼が出てくるせいか、はたまた現実で彼と過ごす時間が普段の日常に比べあまりに幸福であるせいか、夢にせよ現実にせよ彼自体が朧気な存在に思えてきてしまった。

 ゆっくりと立ち上がり、すっかり冷えた紅茶を一口飲んでから小さなドレッサーの鏡を見てみた。酷い顔だ。予定を終えた後、疲れ果ててそのまま寝てしまっていたのだろう。
こんな姿を自分が好いている人に見せるのはとても抵抗があったが、今すぐ彼のところに行きたいと思った。彼に触れて確かめたかった。

 近付いていくと、彼はすぐに火を止め私に歩みを進めて、私よりも大きな身体で抱き締めてくれた。

 「おはよう。勝手に来てごめんね、合鍵を貰えたのが嬉しくて。君は寝起きも綺麗だね。」

 「おはよう。いつでも来てくれていいの、ボンゴレビアンコもとっても嬉しい。ついでのお世辞もちょっぴり喜んでおくね。」

 「本当のことだよ。少し不安そうな顔をして眠っていたから心配してたんだ。どんな夢を見てたの?」

 「とっても奇妙な夢だった。でもね、今こうして貴方に触れられて、私心から安心してるわ。それと、私だって貴方を幸せにする為にずっと傍に居たいって思っているもの。」

 そうしたら、彼は一瞬少し不思議そうな顔をしたが、すぐに何かを理解したように「そっか」と微笑んで、触れるだけの優しいキスを何度かしてくれた。くすぐったくてつい笑ってしまった時、彼はもう一度力強い腕で抱き締めてくれた後、台所に戻って行った。

 夢じゃない、と思った。

 「ねぇ、今年の夏は線香花火をするのはやめておきましょう?」

 「ええ、どうして。君と対決するの、結構好きなんだけどな。」

 「火が消えてしまうのが、いつもより哀しく感じちゃいそうなの。」

 私達の時間は例え激しく求め合おうとも、ほんのしばらくの間でも、いつだって淡いもの。
霞がかった限りない迷路に酔いしれながら、きっとこの先も、彼と愛し合っていくのだろう。