「『推し』の死」について

 ここのところ、ミュージシャンやタレントの急な訃報が相次いでいる。特別なファンというほどではないが、その作品に触れてきた方々ばかりなのでこたえるものがあった。それぞれ熱烈なファンの多い方々でもあり、SNSに悲しみの声が溢れるのを見ていた。亡くなられた中には私の好きなアーティストと同年輩の方もおられ、ついいろいろと考えてしまう。その中で、どうしても忘れられない記憶があった。

 私が初めて好きになった俳優は、若くして急逝した。中学生の時に彼のファンになったが、当時「推し」という言葉は知らなかった。後から思い返して、彼は紛れもなく、人生最初の「推し」だったと気づいたのだ。
 子供の頃、訃報を聞く芸能人の大半は「なんか名前は聞いたことあるけどよく知らないお爺さんお婆さん」だった。彼が亡くなったのは私が高校生の頃で、まだそんな印象が続いていた。そこに、憧れの、まだ若い人の名が突然現れたのだから、ショックは計り知れなかった。

 あんなに好きだったあの人がもうこの世にいない、その事実を受け止めるまでには当然時間がかかった。亡くなる直前まで多数のドラマに出演していたため、死後に放映されたものや、再放送で顔を見ることもあった。その度に私は彼の姿に見とれ、そして、「ああ、もういないんだな」と思い返した。彼の出演作を録画したビデオも繰り返し見た。時折訪れる、胸がえぐられるような激痛をごまかすために、針で刺すほどの小さな痛みを常に自分に与えていたのだった。そんなことを何度も続け、私はようやく、彼のいない世界に慣れていった。

 それから年月は流れ、私は大学生を経て社会に出た。その間、趣味が何度か変わり、新たな「推し」も増えた。あの時以来、「推しの死」は経験していない。誰にも死んでほしくないし、健康に長生きしてもらいたいと思っている。けれど、どんな長寿の人でも、その時はいずれ必ず来る。大人になり、身近な人の大病や死をいくつか経験した今なら、あの頃より冷静にそれを受け止められるのかもしれない。それとも、むしろ死をリアルに考えるようになった今だからこそ、その悲しみは深くなるのだろうか。今の「推し」の何人かの顔を思い浮かべ、私はそんなことを考えた。
 今、私の最初の推しのことを、「本当に素晴らしい役者さんだったな」と思い返している。 思い出すことで、少しだけ、彼をこの世界に蘇らせることができるような気がして。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?