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「仕事術」がいらなくなる世界へ

1897年12月30日。

オハイオ州クリーブランドの新聞に「電話こそが責められるべきだ」という題名で、レイクショア&ミシガンサウス鉄道の社長であるS.R.カラウェイ氏の苦々しさが行間から感じられるコメントが掲載されました。

曰く、「ビジネスはそこら中で広まっているのに、人々が鉄道を使わない理由、それは電話が広まったからだ。人々は長距離を旅して人に会うのではなく、電話で、リモートで仕事を済ませてしまう」。いかにもそれが悪しき慣行であることを嘆くように、カラウェイ社長はコメントを結んでいます。

1927年。

チェロキー族の血を引く俳優であり、コメディアンであり、社会評論家として当時名を馳せたウィル・ロジャース氏は、発明されたばかりのテレヴィジョンなる機械について苦言を呈しています。

「この映像の電話なるものによってプライバシーはなくなるだろう。呼び鈴が鳴っているからといって風呂からこの電話に駆けつけてはならない。なぜなら、もはや誰がみているかわかったものではないからだ」

この2つは、いかに過去の技術が当初は誤解され、その後の受容と発達によってそうした予想がときには笑ってしまうほどに間違っていたことを示す例です。

しかしこれが、やがてやってくる情報化時代以前の、テクノロジーに慣れていない人々だけの間違いだと考えるのは大きな間違いです。

2007年に初代iPhoneが発表された際にも、数々の今となっては恥ずかしいほどに的はずれな予想が飛び出しました。

「コーヒもいれてくれるトースタなんてあるだろうか? そんなものはない。なぜならそれぞれに特化した製品に比べて、両者をあわせたものは見劣りするからだ。同じことは電話とカメラにもいえる」(ジョン・ルービンシュタイン、当時の Palm CEO)。

「アップルはこのiPhoneとやらをやめるべきだ。どんな製品でもクールで間違いを犯すことがないというアップルのブランドを傷つけるものになるだろう。目を覆うような失敗になるはずだ」(ジョン・C・ドヴォラク、MarketWatch)

実際にはどのようになったのかは、わたしたちはよく知っています。電話や、テレビといった発明と同じように、iPhone は単なる発明ではなく、わたしたちがどのようにして連絡し合うのかを、仕事と生活のすべてを変えてしまったのです。

新しい仕事術とは、常に新しい情報手段のことだった

似たような状況は、つい先日までの私たち自身でもありました。

新型コロナウィルスが通常の人と人との接触を不可能にしてしまい、それでも仕事を続けなければいけなかったわたしたちは、それまで多くの人が利用したことはもちろん、聞いたこともなかった Zoom というサービスに飛びつきました。

自宅でビデオ会議ができるように、それまでは YouTube で配信をする人々だけが利用していたビデオキャプチャーカードが飛ぶように売れ、音質の良いコンデンサマイクはAmazonの在庫からしばらく姿を消しました。

この状況は、時間を早送りにした1897年と、1927年にそっくりです。

リモートで作業をしなければいけないという必要が、S.R.カラウェイならばおそらく「人と人とがもはや会わなくなった」と嘆くであろう急速な変化をもたらしたのです。

それに比べれば、2007年に登場したiPhoneと、その周辺の技術発展が変えてきたこの13年の流れはいかに容赦がないももとはいえ、とてもゆっくりとしたものです。

この13年でわたしたちは「コンピューター」を使って仕事をしているのではなく、その先に存在するインターネットを利用して仕事をしている状況にすっかり転換しました。

必要不可欠だった道具は代替可能なものとなり、メール、メッセンジャー、ビデオ会議といった新しい連絡手段が生まれるたびに、わたしたちの仕事はオフィスでやらなければいけないという具体的なものから、しだいに抽象的なものへと変わっていったのです。

リモートワークの時代の合言葉である「いつでも、どこでも」仕事ができるというのは、新しい情報手段の登場によって仕事が抽象化されてゆくプロセスそのものだったといっていいでしょう。

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次第に抽象化されてゆく「仕事術」

日本ではカタカナで「ライフハック」と書かれ、誤解されることが多い "Life Hack" という言葉があります。

この言葉はもともと 2004 年にテクニカルライターのダニー・オブライエン氏がオライリー社のエマージング・テクノロジー・カンファレンスにおいて「生産性が非常に高いエンジニアの日常的習慣」という題材で行った講演から来ています。

生産性の高いエンジニアはだれよりも才能があり、他の人の何倍も仕事をする能力をもっているのだろうか? という疑問について調べたところ、必ずしもそうではないことをダニーは発見しました。

そうしたエンジニアは、難しい問題を簡単なものへと分解し、日常において繰り返される作業を自動化するために「恥ずかしいほど簡単なスクリプト」をいくつも駆使し、いわば日常的に時間を節約する近道を作っていたのです。

日常生活を、そして仕事をハッキングするようなこうした習慣を「Life hacks」と呼んだことから、多くの人がこうしたテクニックや習慣をネット上で共有しあうようになりました。

ライフハックはまさに上述のiPhoneの登場と並行して、仕事がネット上で行われる時代の代名詞として発展していきました。

これも、先ほどの仕事の抽象化という視点でみると「仕事の作業」そのものを自分から切り離し、いつでも指先一つで再現可能なものに外部化してゆくプロセスだということがわかります。

みなさんも、日本語変換ソフトの設定で簡単なショートカットでなんども書くメールの本文を一気に埋めるテクニックや、便利なショートカットの使いかたといったものを試してみたことがあると思います。

その全ては仕事をいわば「わたし」から切り離して、抽象的で再生可能なものにするものです。「仕事術」とは、極論「わたし」がいなくても作業がまわるように外部化されたテクニックのことなのです。

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最後に残った、「わたし」という存在

すると、最後には何が残るのでしょうか? 

リモートワークを悲観的にみるならば、その果てにあるのは、成果だけが上がっているならそれを実行しているのがわたしであろうが、誰か他人であろうが関係がない世界です。

「仕事術」が、すくなくとも「わたし」を幸せにすると思って実践していた先にあるのは「わたし」すらいらなくなった世界というシニカルな結末だってありうるのです。

しかし別の世界線もあり得ます。

代替可能な作業はすべてが自動化され、AIが適宜に判断する世界の中で、「わたし」は、これまでコンピューターがあまりに限定された機能しかもっていなかったためにいちいち操作してあげなくてはいけなかった作業から開放される可能性もあります。

今度こそは「わたし」が、過去を背負った個人として、物事に感動したり涙したりする人間として、成果に対する人間味のある貢献をすることを期待される時代が来るかもしれません。

新しい情報手段が新しい「仕事術」を生み出すという何百年ものあいだ正しかったトレンドは今後も続くでしょう。

しかし初めて、いつでもどこでもつながる世界と、あらゆる作業が外部化され自動化されリモート化された果てに。

「わたし」なる個性が仕事において貢献する日がそこまで来ているのかもしれません。

「仕事術」なるものが無意味化して消えるときこそ、「わたし」の仕事が輝く時代として。


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