「セクション230」 ネットの未来を知る上で注視すべきキーワード
しばらく前からアメリカ議会の共和党側も民主党側もまきこんでくすぶっている、Facebookをどうするか問題の新しい展開として、セクション230、いわゆるCommunication Decency Actを修正すべきという論調が目立つようになってきました。
最近この話題に乗っかったのは、民主党大統領候補で、元副大統領のジョー・バイデン氏です。
Facebookはプラットフォーム上に投稿される政治広告に明らかな嘘があった場合でもそれを理由に削除しないことを明言していますが、それを問題視したうえでの見解になります。
「なにか間違っていることを拡散した場合に訴えられることがないという、Facebookに対して与えられている免責は、私に言わせれば即座に剥奪すべきものだ」これが2019年11月におけるバイデン氏の立場になります。
まともなことを言っているようにみえますが、たとえばフェイクニュースをシェアした場合に罰せられるとして誰がそのフェイクを判別するのか? といった問題があります。雑にこの問題に介入すれば、その副作用として検閲がひどくなるか、あるいはツイッターなどは利用規約を限界まで曖昧にしてのらりくらりと逃れた結果、フェイクニュースがもっと蔓延することにもつながりかねません。
逆にトランプ氏はトランプ氏で、Secton 230 について「廃止すべきだ」とたびたび発言しています。
しかしトランプ氏や共和党側の場合、その理由は大雑把にいうと「ツイッターやFacebookが我々の発言をフェイクだと決めつけてラベリングしたりRT不能にするのは検閲だ」という主張で、Section 230によってこれらのIT企業が守られているのが不当だというのが廃止すべき理由となっています。
選挙についてどれだけフェイクな情報をながそうともそれは言論の自由で、その責任を問われたりペナルティを受けるのはごめんだというわけです。
このように両党ともSection 230の存在と、それが及ぼしている影響については腹に据えかねる部分があるわけで、それぞれの思惑に沿った形でこれを改正しようともくろんでいます。ではそのSection 230とはそもそもなんでしょうか?
そもそも「セクション230」とはなにか
Section 230はよく「インターネットを作り上げた26単語」と言われています。この短い条項によって、掲示板からツイッターやTikTokに至るまで、いまのネット文化における法的責任の範囲が生み出されたといえるからです。
セクション230は1996年のTelecommunications Actの一部で、第三者のコンテンツを "interactive computer service" を通して提供するものに対して与えられる免責事項を規定しています。
No provider or user of an interactive computer service shall be treated as the publisher or speaker of any information provided by another information content provider.
ざっくり訳すと「インタラクティブなコンピューターサービスの提供者ないしはユーザーは、別の情報コンテンツの提供者による情報の publisher あるいは speaker とはみなされない」となってます。日本だとプロバイダ責任制限法(第三条)が対応するでしょうか。
たとえばnoteに差別的な投稿をするひと、問題のあるコンテンツを投稿する人がいる場合、note自身がそれに対する直接的な責任を負うわけではなく、投稿した人が責任を負うというのは、わかりやすい話です。
この項目があったからこそ、膨大な User Generated Contents (UGC) を集約したウェブサービスや SNS が可能になり、スタートアップ企業はユーザーの投稿した情報による訴訟リスクを限定的に見積もって成長できたといえます。
しかし2016年の大統領選挙で大量のフェイク情報が投稿されたFacebookが依然として虚偽内容を含む政治広告について削除は行わないと明言しているために、これを問題視しているわけです。
剥奪したほうがいいと言ってる側は、そもそもFacebookはセクション230で守られているinternet companyの存在を超えた言論プラットフォームであり、publisherとして扱うべきだ、つまり訴訟の対象にできるようにすべきだと主張しています。
モデレーションをしないことで得をする
Facebookが頑なに政治広告のモデレーションを拒否しているのには、広告のすべてについて正しいか間違っているかをチェックする政治的な立場をとりたくない、「なにが正しいか」の警察になりたくないという点もあります。
しかしもう一つおかしな前例があって、モデレーションをすることによってかえって不利になってしまう可能性があるのも影響しています。
たとえばかつてCompuServは掲示板を一切モデレーションせず、ゆえに publisher ではなく distributer であるとみなされて訴訟から免じられたの対して、Prodigy はモデレーションをしていたために「お前は publisher としてコンテンツをモデレーションしていたのだから、見逃したものについては責任がある」とみなされたケースもあります。
ただし、2016年の大統領選挙にともなうフェイクニュースへの対応で、Facebookはサードパーティーのファクトチェック団体との協業でモデレーションを実行してもいますので、だんだんこのあたりは事態が錯綜しているところでもあります。
総じて、いまのところアメリカ民主党側は「フェイクニュースによって影響を受ける人、被害をうけるひとがいるなかで、Facebookなどは十分にそれを制御する役割を演じていない」と主張し、共和党側は「我々は不当に検閲を受けているので、Facebookはバイアスのない中立な情報プラットフォームになるように努力すべきだ」と主張する傾向があります。
ただ、大事なのはもともとのセクション230の考え方には「中立」という概念はないという点です。
むしろ「中立」ではなく、偏ったサイトやサービスを作る自由も守った上で、インターネット情報企業が訴訟の対象にならないようにしたという経緯もあったりするわけです。その自由が暴走した結果、ハラスメントに対して対処が難しい、虚偽の広告が武器として利用される世界が生まれる副作用が発生しているともいえます。
意図的にあるいは、不作為によって虚偽が投稿されている場合の責任
というわけで、問題の根源にやってくるわけです。意図的、あるいは不作為によって虚偽が投稿されている場合、それを表示させているFacebookやツイッター、プロバイダーの立場はどうなるのか、です。
中途半端にルールを作れば、それは意図的に虚偽を流す人に悪用されるでしょう。しかしあらゆる虚偽を無くす方法は、そもそもコミュニケーションをとれなくしてしまいます。
たしかウンベルト・エーコが「嘘を伝えることができない記号のコードは真実を伝えることもできない」(いま本が手元になくて、正確な引用ではないですすみません...)といっていたのと似たような状況が生まれるわけです。
そしてそれは、最近のYouTubeでの不正確な歴史解説はどうすべきかという話題にもつながります。
発信する自由、意図せずして不正確なことを言ってしまうことに対する責任の限界、不作為に虚偽を流す責任、意図的に虚偽を流す人の責任、そしてそれについて本人が対応するつもりがない場合に、プラットフォームがどのような責任を負うのか。そのすべてがこの Section 230に関わってきます。
一方には、より厳重にネットの言論を統制したいと考える人々が、他方にはどんなフェイク情報でも好き勝手に発言できるようにしたいという人々がいて、どちらの世界観もバランスを欠けば暗い結果しかもたらしません。
しかし Section 230 は1996年に生まれたこともあって、現在のインターネットやSNSのあり方からみると無理があり、改正が必要であることもまた事実です。
これをどのように取り扱うのかは、個人の発信力が強い時代において発言の自由とはなにか? 真実性の担保とは? 批評の自由と責任の限界は? という、自由と真実を賭けた戦場といっていいのです。
(2020/12/02:追記したり表現をあらためています)