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第11週 火曜日 スポーツ選手 高橋尚子

11人目のスポーツ選手は 女子マラソン選手の高橋尚子さんです。


高橋 尚子(たかはし なおこ)さんは1972年5月6日 - )は岐阜県岐阜市にお生まれです。


ご両親は教育者で、二人兄妹の妹として生まれられました。
2歳まで、お母さんの実家のある高山市で過ごした後、岐阜市に移られました。

岐阜市立藍川東中学校の在学時から陸上競技を始められます。


県立岐阜商業高校時代は800mの選手で県大会で岐阜県1位になられました。しかし全国インターハイでは予選で敗退となりました。

高校2年生の時に初めて岐阜県代表に選ばれて全国都道府県対抗女子駅伝に出場されます。
その時の区間順位は47人中45位だったそうです。

大阪学院大学時代は日本学生種目別選手権の1500mで優勝して全国で初タイトル獲得されます
関西インカレでは中距離2種目で優勝して女子最優秀選手に選出された年もあるなど、800m、1500m、3000mの3種目で何度も優勝されました。
学生日本一を決める大会の日本インカレでは、1993年、1500mで2位、3000mで3位。1994年も1500mで2位、3000mで3位と両種目とも2年連続で同じ順位となり表彰台には上がられています。

また、高橋さんは大阪学院大学陸上競技部で初めて日本インカレの表彰台に上がった選手だそうです。
全日本大学女子駅伝、全国都道府県対抗女子駅伝などでも活躍されました。

高橋さんは在学中、教師になるために母校、県立岐阜商業高校で教育実習を受けていたが、陸上を継続したい気持ちも強くあったそうです。

実業団数社からの勧誘もあり、大学卒業後の自分の進路について、悩まれました。

その時陸上を続けるなら、勧誘されていた企業ではなかったが、小出義雄監督率いるリクルートの門を何故叩かないのかと高校時代の恩師、県立岐阜商業監督、中澤正仁氏から助言を受けられます。

そこで大阪学院大学の監督の計らいで、富山インターハイの折に、金沢市内に泊まっていた小出監督と面接されました。

社の方針で大卒は採用していないと、一度は断られたそうですが、高橋さんの熱意が届き、夏のリクルート北海道合宿に参加できることになったそうです。

その合宿で高橋さんの走りを見た小出氏は一目で素質を見抜き、正社員ではなく契約社員という条件ではあるものの、リクルートに入社することになりました


1995年に高橋さんはリクルートに入社されます。


当時有森裕子さん、鈴木博美さん、志水見千子さん、五十嵐美紀さんなど日本代表クラスの選手をずらりと揃えていたリクルートチームで駅伝メンバー入りすることが最初の目標であったが、入社1年目から駅伝メンバー入りすることができたそうです。

1997年1月26日の大阪国際女子マラソンが高橋さんの初マラソンとなりました。

この時、小出氏は高橋さんのことを各種メディアに「有森二世」とイチオシの選手として紹介していたそうです。しかし中間点を過ぎた後、先頭争いから脱落してペースダウンとなり、初マラソンは2時間31分32秒の記録で7位に終わられます。

1997年4月、小出氏がリクルートを離れ積水化学へと移籍する。これにともないチームメンバーとともに高橋さんも積水化学へと移籍することになりました。



1997年8月高橋さんは世界陸上選手権アテネ大会の女子5000mの代表に選出され出場されます。予選レースを通過されますが、決勝レースの順位は13位でした。
また、この世界陸上選手権アテネ大会で、高橋が練習パートナーを務めていた先輩の鈴木博美がさん女子マラソンで優勝されます。 これを沿道で応援していた高橋さんは鈴木の優勝を喜び感激し、この大会を契機として本格的にマラソンランナーへの道を歩んでいくことになりました。

1998年3月8日の名古屋国際女子マラソンでは、30km地点まではスローペースの先頭集団に目立たない位置でついていた。その後30kmを過ぎてから、小出の「ここからいけ!」の合図に猛烈なスパートを開始されます。30〜40kmを32分27秒、残り2.195kmを7分10秒で走り、ゴールタイムは2時間25分48秒の日本最高記録(当時)をマークしました。
これが高橋さんのマラソン初優勝でした。

1998年5月のIAAFグランプリ大阪大会の女子5000mで優勝されます。
IAAF国際グランプリシリーズでの優勝は日本女子選手では初めてのことであった。

次に高橋さんは1998年12月6日のバンコクアジア大会女子マラソンに出場されます。
最高気温30度を超す高温多湿のレースだったそうです。スタート直後から一人、飛び出した高橋は、5kmラップを16分台のスプリットで刻むハイペースで突っ走り、中間点を1時間9分15秒で通過。30kmまでは世界記録を更新するペースで進んでおられました。30km以降は17分台のスプリットに落ちたものの、独走状態で2位とは13分以上の差をつけ、ゴール時気温32度、湿度90%の最悪な条件のなか、2時間21分47秒のアジア最高記録(当時)で優勝されました。
また自身の持つ日本最高記録を4分以上も更新して世界最高記録(当時)まで1分というところまで縮められました。
また、女子マラソンはアジア大会で初めての開催種目だったので、その後の日本選手の士気を高めて金メダルを量産する原動力となったそうです(当大会で男子100mの日本記録を更新した伊東浩司はそのように取材で述べていたそうです)。

そして、高橋さんは一躍2000年シドニーオリンピック女子マラソンの金メダル最有力候補として、世界から注目を集めることとなられます。

1999年8月29日のセビリア世界陸上の女子マラソン代表に選ばれていましたたが、レース直前に左膝を痛めたため欠場されます。その後も10月に左腕を骨折したり、翌2月には食あたりによる腹痛を起こして入院するなどアクシデントが続きましたた。

2000年3月12日、五輪最終選考会となった名古屋国際女子マラソンに出場されます。体調は万全では無かったそうですが、前半1時間12分40秒とやや遅いペースで中間点を通過すると、まもなくして22.5km過ぎで先頭集団から自ら抜け出して一気にペースアップ、後半1時間9分39秒 で駆け抜け、2時間22分19秒の大会新記録で優勝されます。これにより、シドニー五輪代表の座を獲得されました。

2000年7月2日、シドニー五輪女子マラソンへ向けて調整の一環として札幌国際ハーフマラソンに出場、女子の部において1時間9分10秒で優勝されました。


2000年9月24日のシドニー五輪女子マラソンです。

18km付近で先頭集団を抜け出しスパート、一気に集団がばらけました。その後26km辺りからリディア・シモン(ルーマニア)と激しくデッドヒートを演じるが、34km過ぎでかけていたサングラスを沿道の父親に投げ飛ばしたと同時に、スパートをかけてシモンを突き放されます。

スタジアムのトラックでシモンに追い上げを受けましたが、そのまま逃げ切り日本陸上界悲願の優勝ゴールテープをきられました。

高橋さんの18kmから常にレースを引っ張る走りは、ゴール後の笑顔とともに、世界のマラソンファンに強い印象を与えました。

五輪での金メダル獲得は、日本陸上界64年ぶり(戦後初)であるとともに、日本女子陸上界においては史上初でした。

またゴールタイムの2時間23分14秒は、ジョーン・ベノイトがロサンゼルス五輪でマークしたタイムを16年ぶりに更新する五輪最高記録(当時)だったそうです。

これらの功績により同年10月30日に国民栄誉賞を授与されました。


2000年9月24日シドニーオリンピック女子マラソン中継は日本時間、早朝6時45分スタートで9時過ぎにはゴールとなったが、テレビ視聴率は平均視聴率40.6%、瞬間最高視聴率59.5%を記録したそうです。この視聴率は女子マラソン史上最高視聴率となっているそうです。


2001年9月30日のベルリンマラソンでは、女子初の2時間20分突破となる2時間19分46秒の世界最高記録(当時)で優勝されます。またこの中継は日本時間、夕方4時スタートで6時20分にはゴールとなりましたが、テレビ視聴率は平均視聴率36.4%、瞬間最高視聴率53.5%を記録したそうです。この視聴率はオリンピック中継以外では女子マラソン史上最高視聴率となっています。

前世界記録保持者はテグラ・ロルーペ(ケニア)の2時間20分43秒で、1分近くの更新でした。

この高橋さんの世界記録樹立での優勝は、女子初のサブ20達成での歴史的事象であるとともに、日本女子マラソンが初めて世界記録を更新した瞬間でもあったそうです。

高橋さんは女子マラソン世界記録を更新した、ただ一人の日本人選手だそうです。

また、女子マラソン世界記録保持者が五輪金メダルを獲得した選手としてはアメリカのジョーン・ベノイトさんのみいらっしゃいますが、五輪金メダリストとして女子マラソンの世界記録を更新した選手は高橋さんのみだそうです。

2002年9月29日のベルリンマラソンにも出場されます。このレースは通常より1ヵ月間短いマラソン練習で臨まれ、レース途中に足の肉刺を潰すアクシデントもあったそうですが、2時間21分49秒の記録で2年連続優勝を果たし、フルマラソン6連覇を達成されました。

この試みはベルリン出走からわずか1か月半後の2002年11月17日の東京国際女子マラソンへの出場も睨んでいたためであった。しかし、東京のレース数日前に胸の激痛が引かないため診断した結果、肋骨の疲労骨折を起こしていることが判明し欠場されます。

このため、連覇を狙う五輪代表最短切符になる2003年パリ世界陸上は断念することになりました。

2002年12月に小出氏が積水化学を退社されます。

今までと同じ小出指導体制を継続するには諸々の事情で退社するしかなく、高橋さんも2003年2月に積水化学を退社することになりました。



2003年6月、スカイネットアジア航空と2005年5月までの2年間の所属契約を結ばれます。佐倉アスリート倶楽部で引き続き小出の指導を受けられます。

2003年11月16日の東京国際女子マラソンで、翌2004年8月のアテネオリンピック・女子マラソン日本代表選出を目指して走られます。この時期の平均気温より約10度高い、季節はずれの気温24〜25度の高温と風速3〜6mの風の舞う中、スタート直後から高橋自らが飛び出しハイペースでレースを展開、中間点を過ぎてからスパート、独走状態となり完全に勝負はついたと思われたのですがが、30km手前からスタミナ切れを起こしたのか急激に失速されます。39km地点でエルフェネッシュ・アレム(エチオピア)に抜かれて、日本人トップの座は死守したもののゴールタイムは2時間27分21秒で2位となりました。6年10ヶ月ぶりに敗れ、マラソンの連勝記録も6でストップとなりましたた。

その後、代表選考は選考基準が不明瞭であるため難航することになる。

代表は2004年3月15日、午後3時に正式発表がでて。テレビでは午後2時に高橋落選を速報テロップで流し、ある新聞の夕刊の一面では「Qちゃん五輪代表へ」と結果的に誤報を伝えたほど混迷していたそうです。

選考はコース・気象条件なども異なる東京・大阪・名古屋の3レースの上位選手から2名を選ばなければならず(3名枠のうち、前年8月の世界陸上選手権で2位になった野口みずきさんは内定済)、結局高橋は優勝できなかったこと、ゴールタイムやレース内容も悪かったことなどの理由で落選されました(日本陸連が選出した他選手は土佐礼子さん・坂本直子さん。補欠は千葉真子さん)。

こうして五輪連覇の夢は潰れてしまいました。

しかし、高橋はシドニー五輪以降も世界記録を樹立するなど、毎年高いレベルの記録で優勝している実績があったため、この結果は賛否両論で大きな騒動となった。NHKや民放各局は高橋さんと小出監督の会見を生放送で伝え、翌日の一般紙・スポーツ紙の各新聞社は高橋落選を一面トップで伝えたそうです。

2004年5月に秋のマラソンで自己記録更新を目指しアメリカでの合宿のため渡米したが、6月の練習中に転倒して胸を強打されてしまいます。

その後も度重なる怪我により秋のマラソン出場は断念されます。さらに同年10月には練習中に足首を捻り右足首を骨折してしまいます。

2005年5月9日、小出監督指導体制から独立することを発表されます。

高橋と小出が二人揃っての記者会見を行なわれました。


2005年6月、高橋さんはファイテンと2009年5月までの4年間の所属契約を結ばれます。なお同社陸上部とは別に「チームQ」として活動。

2005年11月20日、東京国際女子マラソンに出場されます。

アメリカ・ボルダーから帰国後、ポイント練習で右足に痛みがはしり一時全く走れない状態になったため、順天堂大学で診断した結果、軽い肉離れが3か所あることが判明し全治1か月の診断が下されました。医師やチームのメンバーは欠場を検討したそうですが、高橋さんは何が何でも出場すると主張され、医師とチームのメンバーは痛みが悪化したらすぐ棄権するのを条件に出場を決断したそうです。

当日はテーピングをしての出走となり、終盤35km過ぎまでは様子をみながら自重していた走りでしたが、35.7km過ぎにスパート、2年前まさかの失速で優勝をさらわれたエルフェネッシュ・アレムなどを置き去りにして独走となり2時間24分39秒でゴールされ、2年ぶりのマラソン復帰レースを優勝で飾っられました。

2006年11月19日、2年連続で東京国際女子マラソンに出場されます。今回は31km付近で優勝した土佐礼子さんから遅れ、39km地点では尾崎朱美さんにもかわされ3位でのゴールとなり、翌2007年8月開催の世界陸上大阪大会女子マラソン日本代表選出は絶望的になりました。

2008年3月9日の名古屋国際女子マラソンへ、2008年北京オリンピック女子マラソン代表選出を目指して出場されます。しかしレース序盤の9Km手前で、早々スローペースの先頭集団から脱落してしまい結局27位、ゴールタイムも2時間44分台の自己ワーストの記録となり、北京五輪代表の座を逃されました。

2008年3月24日に東京、大阪、名古屋の国内3大国際女子マラソンに連続で出場する意向を表明して、同年5月にアメリカ・ボルダーに合宿のため渡米されます。小かし、練習を積み重ねていく中で、それまでと違い大きな大会で優勝を狙う練習メニューがこなせなくなり、プロ高橋の走りができなくなったことなどを大きな理由として、2008年10月28日夕方の記者会見で現役からの引退を表明されます。各テレビ局は引退会見を生放送で伝えました。1時間近くにわたる引退会見で高橋さんは終始笑顔を見せていたが、会見の終了直後に報道陣から大きな拍手が送られると、目に涙を浮かべていたそうです。

2009年3月8日の名古屋国際女子マラソンに、高橋さんはこれまで応援してくれたファンや関係者に感謝する意味を込めて「ありがとうラン」として一般参加で出場されます。沿道の観客に笑顔を浮かべ手を振りながら走り続け、2時間52分23秒のタイムで完走されます。

ゴール後、かつてのライバルだったリディア・シモンさんが近づいてきて抱擁しあい、日本の現役選手からは花束を贈られ、長年の功績へのねぎらいを受けられました。また大会組織委員会からは特別功労者表彰され感謝状が贈られたそうです。


現在高橋尚子さんはは日本陸上競技連盟理事、スポーツキャスター、マラソン解説者。中日新聞社客員。大阪学院大学特任教授。JICAオフィシャルサポーター。観光庁ランナーズインフォメーション研究所所長を務めておられます。

また各地で陸上教室の開催やジョガーとしてマラソン大会に参加、web上でもランニングスクールの講師を務めておられます。

また、2010年春から北海道伊達市(旧・大滝村)で、のぐち北湯沢ファーム内にある「Qちゃんファーム」で野菜作りにも取り組んでいるそうです。

また、「子どもたちに笑顔のシューズを贈ろう」を合言葉に、子どもたちのサイズに合わなくなった中古のシューズを集めて、裸足や裸足に近い状態での生活を余儀なくされている途上国の子どもたちに寄贈して、寄贈した日本の子どもたちには「ひまわりの種」が途上国の子どもたちから贈られるというプロジェクト、「スマイル・アフリカ・プロジェクト」の趣旨に賛同してフロントランナーとして参加されています。

2019年3月1日、スターツコーポレーションとスポンサー契約締結と共に、同社陸上競技部アドバイザーに就任されています。


高橋直子さんの本やDVD,またゲームなどが発売されています。










めぐめぐがすごいと思う高橋尚子さんのこと

1マラソンに出会うまでかなり色々苦労されていること。

しかしそのマラソンに出会うまで走ることをやめなかったというのがすごいです。

2そして小出監督と出会われてからは、その環境を続けるためにたくさん職場も変え練習場も変えとすべてをそのためにかけられたこと。だから本当に素晴らしい成績を残されているのだと思います。


3そして引退後も、ファンを大切にして、後進を育て、世界の子どもたちのために活躍され続けていること。

先日24時間TVに出ていてはしられていて、いろいろな意見があったようですが、本当に高橋尚子さんは走ることが好きなんだろうなと思いました。




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