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第15週 金曜日 芸術家 安井 かずみ

第15人目の芸術家は作詞家、訳詞家、エッセイスト、歌手の安井 かずみさんです。



安井 かずみ(やすい かずみ・本名は漢字で一美)さんは1939年1月12日 神奈川県横浜市にお生まれになりました。お父さんは資産家の家系でガス会社の技術者として働かれておられたそうです。

フェリス女学院高等学校を卒業後文化学院油絵科卒業。

少女時代から絵画のほか、多数の習い事をしておられたそうです。

(茶道、華道、ヴァイオリン、ピアノ、バレエ、日舞、フランス語、英語、油絵など)

女流画家を目指していたが、在学中にみナみカズみのペンネームで神田のシンコーミュージックでアルバイトで訳詞をしたことがきっかけで作詞家となられます。

彼女がある日、ラフマニノフの楽譜を買うために入った音楽出版社で、何人かの男の人たちがアメリカン・ポップスのヒット曲の訳詞をしていました。英語、フランス語に堪能だったかずみさんは、そこで翻訳のためのアイデアを口にされたそうです。

「ルイジアナ・ママ」や「可愛いベイビー」などの訳詞で知られ、和訳ポップスの代表的訳詞家だった漣健児氏

(のちのシンコー・ミュージック社長草野昌一氏)は、彼女の訳詞が気に入り、アルバイトで訳詞をしないかと彼女に声をかけました。

こうして、訳詞家になる最初の道が開けました。

彼女にとって最初の仕事となったのは、坂本九が歌って大ヒットすることになるエルヴィス・プレスリーのヒット曲「GIブルース」の日本語版だったそうです。


(彼女が訳詞した主な曲としては、「花はどこへ行った」、「ヘイ・ポーラ」、「レモンのキッス」、「アイドルを探せ」、「ドナドナ」などがあるそうです。


 かずみさんの訳詞のセンスの良さに気付いたNHK「きょうのうた」のディレクター林叡作が、番組で使う曲の作詞を依頼。

こうして、1964年彼女にとって初の作詞曲「おんなのこだもん」が誕生することになり、中尾ミエさんが歌いヒットすることになりました。


 こうして作詞家として仕事を始めた彼女は、キャンティで親しくなった渡辺美佐さんを通じて、渡辺音楽出版にマネージメントを任せ、渡辺プロ所属の歌手を中心に詞を書いて行くようになり、作詞家としての量産体制に入ることになります。伊東ゆかり「歌をおしえて」、ザ・ピーナッツ「キャンディー・ムーン」、園まり「何も云わないで」などが大ヒットします。



フランス語の訳詞ができる語学力と独特の発想による歌詞世界でたくさんの作詞をされました。

また1960年代、日本の文化・芸術の最先端をゆくアーティストたちが集まる場所として有名だったイタリアン・レストラン「キャンティ」で、加賀まりこさんらと親しく交際されたことも知られています。


 


1965年、伊東ゆかりさんの「おしゃべりな真珠」で第7回日本レコード大賞作詞賞を受賞されます。






以降も伊東ゆかりさんの「恋のしずく」、小柳ルミ子さんの「わたしの城下町」、沢田研二さんの「危険なふたり」「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」 など数多くのヒット曲を送り出し、多くの賞を受賞されました。






作詞した作品の総数は約4000曲にものぼるとされているそうです。

海外旅行がめずらしかった当時、フランスその他ヨーロッパ諸国などを旅して交友を広げられました。

かずみさんはイタリアン・レストラン「キャンティ」のオーナー川添梶子さん主催のピエール・カルダン歓迎パーティの会場で建築美術が専門の青年実業家で家具や美術品の輸入業を営む新田ジョージ氏さんと知り合いやがて交際されるようになります。



 1966年10月14日、二人はイタリアで当地の身元引受人だった画家バルテュス夫妻立会いのもと、ローマのヴィラ・メディチで結婚式を挙げました。その後、二人は2か月かけてヨーロッパを旅して回ります。帰国後は、再び彼女は作詞家として活躍。当時いよいよ大ブームになろうとしていたグループ・サウンズの作詞を担当することで大忙しの日々となられたそうです


 そのために彼女の交際範囲は広がり、夜もGSのメンバーらと過ごす日が増えたため、家を空けてばかりになり、真面目な新田との関係が危うくなってしまいます。
 1968年、二人は夫婦生活をやり直そうとすべてを捨ててニューヨークに移住します。

かずみさんはアクセサリーのデザインと製作、販売により収入を得ますが、先行きの不安とアメリカでの孤独な生活に彼女は不満を持つようになります。日本の友人たちもそんな彼女の暮らしを心配し、川添梶子さんがフランスに来るように誘います。


 1969年、安井はパリにしばらく滞在した後、一人日本に帰国し、新田との離婚を決意されます。

1971年帰国されたかずみさんは

離婚し、まったく収入もない仕事をしなければなりませんでした。

そんな彼女を救ったのが、ソロデビューしようとしていた元タイガースの沢田研二氏でした。彼は自分のソロ・アルバム「JULIE」(1969年)の歌詞をすべて彼女に依頼。そのおかげで彼女は多額の収入を得ることができたのでした。その他にも、彼女の友人たちの協力により、彼女は生涯唯一となる歌手としてのアルバムを発表することにもなりました。


アルバム「ZUZU」(1970年)
収録されている曲は、もちろんすべて彼女の作詞によるものですが、作曲者はすべて彼女の仲間である異なる作曲家の作品だそうです。


「わるいくせ」村井邦彦、「過ぎゆく日々」加瀬邦彦、「その時では遅すぎる」マモル・マヌー、「見知らぬ人」西郷輝彦、「愛の時」鈴木邦彦、「プール・コワ」かまやつひろし
「あたしには何もない」平尾昌晃、「ビアフラの戦い」沢田研二、「今日までのこと」なかにしれい、「追憶のスペイン」布施明、「九月の終わり」石坂浩二、「風の方向」日野皓正





 

1970年代、川口浩氏が経営するプール付きマンション「川口アパートメント」に入居、親友加賀まりこさん、野際陽子さん、コシノジュンコさん、か

まやつひろし氏、吉田拓郎氏、金子国義氏や当時のトップモデルなど多くの業界人が集ったアパートだったそうです。

また車好きも有名で、高級外車を運転していたそうです。

この頃は様々な男性と交遊していたそうです、


1975年、彼女は再び運命的な出会いをします。12月23日彼女にとって6冊目となるエッセイ集「TOKYO人形」の出版記念パーティーで彼女は加藤和彦氏と出会い、すぐに恋に落ちます。


 1976年の加藤初のソロ・アルバム「それから先のことは・・・」で彼女はずべての作詞を担当し、ここから彼女は他の歌手の作詞をことわるようになり、主婦業と加藤作品での作詞のみを行う新たな人生をスタートさせます。

この決断に周囲はとまどい、人間関係、友人関係がここで大きく変化することになりました。
 1977年、渋谷の本多記念教会で結婚式を挙げられます。

こうして、仕事を夕方には終えると、夕食用に着替えて二人で毎晩、正装して食事を共にする生活が、始まりました。


 二人の結婚生活は、最先端をゆく国際的日本人カップルによる新たなライフ・スタイルの提案として多くの雑誌やテレビなどで取り上げられることになったそうです。

当時、多くの女性たちがユーミンのライフスタイルを目指し、その先の理想には安井かずみさんの結婚生活を目標にしていたそうです。

1992年ごろ、身体の不調を訴えたかずみさんが病院で検査を受けると、悪性の肺がんであることが発見され、余命は1年もないと宣告されたのです。

当時、加藤氏は彼女に末期がんであることを告げない道を選択。希望をもったまま余命を安らかに生きてもらおうと考えたようです。
 それでも彼女は自らの死を予感したのか、夫とともに久しぶりにキリスト教の教会に通うようになり、洗礼も受けられているそうです。


 最後の一年、加藤氏は仕事をすべてやめ、愛妻のためにすべてを捧げました。当時、彼女は保険に入っていなかったらしく、医療費はかなりの高額になったようですが、夫は彼女のために最高の医療環境を用意しました。

しかし、この負担が後に、夫の経済状況を追いつめる原因になったともいわれています。


 1994年3月17日、一年に及ぶ闘病生活の後、彼女は約4000曲の詞と33冊のエッセイ集を残しこの世を去られました。「金色のダンスシューズが散らばって、私は人形のよう」が絶筆であったそうです。

安井さんの死を受け、沢田研二氏はツアーの名称に「ZUZU」をつけて、その死を悼まれました。

 彼女の死の後、1995年に夫の加藤は一年後にオペラ歌手中丸三千繪さんと再婚します。この時、彼はかずみさんに関わる遺品などをすべて処分してしまったといいます。ところが、夫婦生活は2年で実質的に破綻。2000年には正式に離婚。2009年10月16日、加藤は軽井沢で自殺されているそうです。


2012年3月 - NHKにて安井の闘病生活を題材にしたドキュメンタリードラマ「優雅な生活が最高の復讐である」が放映される。安井役を麻生祐未、加藤役を袴田吉彦が演じておられます。


安井かずみさんの伝記はこちらが有名です。


 安井かずみさんの本はいくつか現在も買うことが出来ます。



めぐめぐがすごいと思う安井かずみさんのこと

1少女時代からものすごい優秀でその才能を訳詞家、作詞家として

大成されたこと。

2自分が生きたいということを生涯追及されたこと。

3そしてその生き方は愛を求め愛に生きる生き方だったと思います。


自分がしたいことが出来なかったとしても、生涯本当にやりたいことをしたいと望んで、形にしていけば、道が出来る。そういうことを安井かずみさんの人生は私たちに教えくれているような気がします。

ただそのためには相当の頭の良さとたくさんできる才能(それが可能な経済状況)が必要であることも確かだと思いました。

一日一日本気で生涯を通して生きられたことを特に感じました。


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