第22週 月曜日 歴史上の人物 高橋ふみ
第22週目の歴史上の人物は哲学者の高橋ふみさんです。
高橋 ふみ(たかはし ふみ)さんは1901年7月26日石川県河北郡七塚村木津(現・かほく市木津)に6人兄弟の次女としてお生まれになります。(姉宇良、兄佐五郎、妹たみ、弟七郎、妹とも)
お父さんは羽二重工場を営み、七塚村の村長を務めるなど、裕福な名士だったそうです。
また母親は日本の哲学者西田幾多郎氏の妹で、ふみさんは西田の姪にあたります。
ふみさんは1914年3月地元の尋常高等小学校を卒業すると、当時石川県内唯一の公立高等女学校であった金沢第一高等女学校に入学されます。
1918年4月 - 県立金沢第一高等女学校を卒業されます。
ふみさんは女子高等師範・女子医専のような実学・職業教育ではない学問を求め、花嫁修業を求める親を説得して、設立2年目の東京女子大学高等学部へ1920年4月に入学されます。
1922年 7月に「チェホフに就いて」を『東京女子大学 学友会雑誌』第2号に発表されています。
1923年4月 東京女子大学大学部人文学科に入学され、
1923年11月「近時雑感」を『東京女子大学学友会雑誌』第3号に書いておられます。
1924年4月 東京女子大学大学部哲学科に編入学されます。
そして1925年3月 東京女子大学大学部哲学科を卒業されます。
卒業論文は「プラトンのイデアに就いて―パイドンを中心としたる」だったそうです。
さらに、1926年4月に東北帝国大学法文学部に入学して哲学を学ばれます。
1929年3月に東北帝国大学を卒業してからは、2年間宮城県立女子師範学校の嘱託講師英語・哲学)を務められます。
1930年 8月に論文「Cohenの体系的美學より見たる チェホフの『伯父ワーニャ』」を『小さき芽』に発表されています。
1931年に上京して、自由学園の国語教師になられました。また女子経済専門学校講師(倫理学、哲学、論理学)にも就任されています。
1932年 4月の『婦人之友』座談会「現代学生の事実と 批判」に出席されています。
また1933 年『婦人之友』座談会「男女共学実行可能の理論と方法」に
河合道子さん、大島正徳氏、菅支那子さん、槇山榮二氏と共にシンポジストとして出席されています。
また同年11月『婦人之友』座談会 「家族会議の夕」に出席されています。
この頃、「女性文学士の会」、「東北帝国大学哲学会」で積極的に活動されていたそうです。
1934年 11月に論文「スピノザに於ける個物の認識に就て」を東北帝国大学文科会編『文化』岩波書店、第1巻5号に発表されています。
1935年 3月東京女子大学同窓会月報に「一つの釈明」を書いておられます。
1936年1月6日 ラジオ講演で「女子教育における知識の問題について」語っておられます。
1936年3月29日 箱崎丸で横浜からドイツ留学に出発されます。
同年5月19日 ベルリン大学の外国人ドイツ語講座で学び始められます。
7月時事通信在ベルリン特派員としてベルリンオリンピックの記事を書き始められます。
そして11月 ベルリン大学で、哲学並びにドイツ文学を専攻されます。
1937年 3月20日外国人ドイツ語講座を修了されます。
同年10月『東京女子大学同窓会月報』に「伯林から」を寄稿されています。
さらに1938年4月 フライブルク大学哲学専攻並びにドイツ文学専攻で学ばれます。
6月土居光知氏の「藤村の若葉集」を独訳され『日本』第4巻2号に掲載されています。Wakanashu von Toson, Von Professor M. Doi, Übersetzt von Fumi Takahashi, NIPPON, 4, Jahrgang, Heft 2, 1938.
同年11月頃から1941年まで6回にわたり「フライプルグ通信」を『東京女子大学同窓会月報』に連載されています。
1939年6月土居光知氏の「萬葉集」を独訳されて『日本』第5巻2号に掲載されています。Manyô-shû, Von Professor M. Doi, Übersetzt von Fumi Takahashi, NIPPON, 5, Jahrgang, Heft 2,1939.
また同年8月17日ドイツ国家試験に合格されべタゴーギツシュディブロームを取得されています。
同年西田幾多郎『哲学の根本問題 続編(弁証法的世界)』の「三、形而上学的立場から見た古今東西の文化形態」の独訳を「ブロイセン 科学アカデミー」から刊行されます。(Übersetzt von Dr. F. Takahashi, Durchgesehen von Prof. Dr. O.Kreßler, Die morgenländischen und abendländischen Kultur Formen in alter Zeit vom metaphysischen Standpunkte aus gesehen, Abhandlungen der Preußischen Akademie der Wissenschaften ,Jahrgang 1939, Philosophisch-Historische Klasse, Nr. 19.)
1939年11月 結核と戦争激化のため、引揚船靖国丸で帰国されます。
12月東北帝国大学哲学会で帰国報告を行われています。
1940年 西田幾多郎『芸術と道徳』の「真善美の合一点」の独訳を仙台の「国際文化協会」から刊行されます。(Die Einheit des Wahren, des Schönen und des Guten, in: Journal of the Sendai lnternational Society, Sendai. von Prof. Dr. Kitaro Nishida,Reprinted from the Jounal of the Sendai International Cultural Society.)
1941年 5月から「続フライブルク通信」を書き始め、 以後5回『東京女子大学同窓会月報』に寄稿されています。
12月西田『日本文化の問題』と「人間的存在」(『哲学論文集第三』所収)をテキストに、郷里の人々に西田哲学を講義されています。
また1942年6月 金沢第一高等女学校で講演されています。
1943年4月 母校に戻り 東京女子大学講師(倫理学演習)に就任されています。
また同年5月東京女子大学創立25周年記念式典にて講演されました。
1945年3月末 兄弟七郎、佐五郎に付き添われて帰郷され、1945年6月7日に逝った伯父の西田幾多郎の後を追うように、2週間後の6月21日に43歳で亡くなられました。
今回はウィキペディア以外に以下のぺージを参照して書いています。
めぐめぐがすごいと思う高橋ふみさんのこと
1女性哲学者のパイオニアとなるべく、家族の反対なども押し切って
学問の道を進まれたこと。
2ドイツ留学中も非常に研鑽され、短い期間にたくさんの業績を成し遂げておられること。
3そして帰国後も更なる業績を亡くなるまで上げておられること。
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