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第17週 作家・歌人・漫画家 藤原道綱母

17週目の作家・歌人・漫画家のカテゴリーは百人一首の歌人藤原道綱母です。小倉百人一首では右大将道綱母という名前で知られています。



藤原道綱母(ふじわら の みちつな の はは)、承平6年(936年)頃生まれたと考えられています。藤原倫寧の娘として生を受けられました。

藤原兼家の妻の一人となり一子道綱を儲けられました。

また、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取り養女にしておられています。

『更級日記』の作者・菅原孝標女は道綱母の妹が母であり、道綱母から見て姪に当たるそうです。

兼家との結婚生活の様子などを『蜻蛉日記』につづられています。


晩年は摂政になった夫に省みられる事も少なく寂しい生活を送ったと言われているそうですが、詳細はわかっていません。


『蜻蛉日記』は没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えているのでなくなったのは長徳元年5月2日(995年6月2日)頃と考えています。


藤原道綱母について『尊卑分脈』に「本朝第一美人三人内也(=日本で最も美しい女性三人のうちの一人である)」と書かれているそうですが、尊卑分脈は間違いも多く根拠は判然としないそうです。

なお、『榻鴫暁筆』(室町時代後期)によれば、他の2人は、藤原安宿媛(光明皇后)と藤原明子 (染殿后)だそうです。

つまり美人でかなり有名だったという証拠ではあると思います。


また藤原道綱母の和歌は『拾遺和歌集』以下の勅撰集に36首が採られ、弟・藤原長能や一子・藤原道綱と共に中古三十六歌仙に選ばれている。家集に『傅大納言母上集』があります。


なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる
— 『拾遺和歌集』恋四・912、 小倉百人一首・53番

嘆きながら、一人で孤独に寝ている夜が明けるまでの時間がどれだけ長いかご存じでしょうか? ご存じないでしょうね。


詞書によると、「入道摂政まかりたりけるに、門を遅く開けければ、立ちわづらひぬ、と言ひ入れて侍りければ」とあります。つまり、夫の兼家が訪れてきたのだが、わざと長く待たせて門を開いたら、兼家は「待たされて立ち疲れてしまったよ」と言って入ってきたわけです。

作者が書いた「蜻蛉日記」によると、話はもっとドラマチックになっています。息子の道綱が産まれたばかりなのに、兼家がもう町の小路の愛人のもとへ通いはじめたので、しばらくして明け方に兼家が訪れて来たので、盛りを過ぎた菊一輪と一緒にこの歌を渡した、とあります。

あなたが来ないので、嘆きながら孤独に寝ている夜。明けて朝になるまでの時間がどんなに長いか、あなたは知っていますか?ご存じではないでしょう。


現代にも通じる人を待つことの切なさがよく伝わってくる気がします。


また、清少納言らと共に女房三十六歌仙の1人にも選ばれています。

道綱母の兄・藤原理能は清原元輔の娘、すなわち清少納言の姉を妻に迎えているので、そのこととの関連性は不明ながら『枕草子』では道綱母が詠んだ以下の歌が紹介されているそうです。

たきぎこる ことは昨日に尽きにしを いざ斧の柄は ここに朽たさむ
— 『拾遺和歌集』哀傷・1339


めぐめぐがすごいと思う藤原道綱母のこと

1歌人の多い家系に生まれさらに才能を開花させ、また当時の

様子を書いた日記が現代にまで残っていること。

2美人として有名でいくつかの書物にその記録があること

3女性としての苦しさ切なさを読みその気持ちが現代にまで伝わっていること。

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