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スポーツ選手 松野明美


はじめに

今週のスポーツ選手は
元陸上競技長距離走・マラソン選手の松野明美さんです。

スポーツ選手時代のことだけをまとめています。



お生まれ 


松野 明美(まつの あけみ)さんは1968年4月27日スイカ・メロンの全国一の産地である熊本県鹿本郡植木町(現:熊本市北区)の農家にお生まれになりました。


学生時代

松野明美さんは小学生の頃は無口でいじめられっこだったが、小学校5年生のとき市内のマラソン大会で優勝されます。


そのときのお母さんユイ子さんの笑顔がうれしく、陸上に目覚め、それとともに性格も明るくなられたそうです。

以来、お母さんのバイク伴走でマラソンの自主練習に励まれたそうです。

熊本市立鹿南中学校(旧:鹿本郡植木町立鹿南中学校)中学校ではバスケットボール部に所属していたが、熊本県立鹿本高等学校から陸上部に所属されます。

しかし、高校時代は全国的には無名で、当初は看護婦(現:看護師)を目指しておられたそうです。

松野明美さんの生まれた68年組には松野さんを含めた4人の有望な長距離選手(真木和さん・鈴木博美さん・弘山晴美さん)がいらっりゃり、横浜国際女子駅伝・国際千葉駅伝に代表される草創期の国際女子駅伝の全日本チームを支え、国内の女子駅伝を盛り上げ、そして日本女子長距離界を引っ張られたっそうです。

しかしその一方で、この68年生まれの4人のうち女子マラソンでオリンピックに出場できたのは真木さん一人のみで、しかも真木は4人の中でマラソン最高記録ならびに選考レースでの記録が最も遅く、奇しくもあとの三人は同じように記録上は代表選手より早いにもかかわらず五輪に出場できていないという、女子マラソン五輪代表選考騒動 に巻き込まれているそうです。

高校卒業後

高校時代の松野は、全国区では無名とはいえ、九州地区では体の小さいランナーとして有名だった。

ダントツでインターハイ九州地区大会を制覇しながらも、あまりにも体が軽すぎて(現役当時、身長147cm、体重35kg、足のサイズ21cm)、強風で飛ばされ足をラインの中に入れてしまい失格したほど小柄でいらっしゃったそうです。


それを見ていた岡田正裕氏(後に亜細亜大学監督として箱根駅伝で総合優勝)が、倒れながらも前に進もうとする松野さんの姿に感動し、勧誘したそうです、


しかし松野さんの両親は猛反対されました。

そこで岡田氏は何度も松野の家に通い、「オリンピックに行けるから」と言って説得したそうです(このことを岡田氏は、当時としては当然ながら勧誘のためのリップサービスであったと認めてお有れるそうです)。

高校卒業後、1987年松野さんは熊本の大手スーパーマーケットであるニコニコドーに入社され、スーパーの時計売り場で働かれます。

同時に、同社の取引先の営業マンだった岡田氏が「駅伝は金がかからないから」と同社社長を説得してその年に創設した実業団チームである同女子陸上部に所属します。

岡田監督の指導の下、松野さんは月間1000キロ以上走り込まれ、国体優勝などの実績を積まれます。

のちに松野さんは拒食症・過食症を繰り返し、岡田自身が「休めるときは休め」と声をかけざるをえないほど、松野は練習の鬼となったそうです。


1987年全日本実業団対抗女子駅伝での全国デビュー


松野さんは同年全日本実業団対抗女子駅伝に初出場されます。

初出場の熊本のニコニコドーという会社の名前やショッキングピンクのユニフォームが全国の視聴者を驚かせました。

そして松野さんは最長の4区10キロで当時女子マラソンの第一人者だった増田明美(日本電気)さんを含む12人抜きで視聴者を驚かせます。

そしてこの記録は非公認ながら10キロロードの日本最高記録32分17秒をマークし、一躍全国の注目を集めました。

またこれは日本女子長距離界のエースが増田さんから松野さんへ代わった瞬間でもあったそうです。

そしてこれ以後、松野は増田明美とよく名前を間違えられたそうです。


当時は女子マラソンや女子駅伝が始まったばかりで、駅伝中継に乗り出したTV局としても視聴率のとれるスターを求めていたということもあり、

小柄な松野さんが自分より大きなランナーを次々とごぼう抜きしく姿が

特に各メディアで鮮烈に取り上げられたそうです。


ソウルオリンピック出場


1988年ソウルオリンピックでは、松野さんは女子長距離トラック唯一の代表である10000m代表に選ばれます。

本番でも積極果敢な走りを見せ、日本記録を出したものの次点で予選落ちされています。このとき、松野さんは増田さんの持っていた日本記録を6年ぶりに更新されました。

また同年の第7回全国都道府県女子駅伝では荒木久美さん(鹿児島県チーム、ソウル五輪マラソン代表)との総合2位をめぐるアンカー対決(最後荒木にかわされ熊本チームは3位)を演じておられます。


また1990年の全国実業団女子対抗駅伝でも、新人五十嵐美紀さん(リクルート、バルセロナ五輪10000m代表)と最長区間4区で壮絶な総合2位争いを繰り広げたことが今日でも語り継がれる女子駅伝名場面として知られているそうです。


松野さんは新人の五十嵐さんを軽くかわそうとしたが、五十嵐さんもかわされまいと前に出る。それに触発された駅伝女王・松野さんもまた前に出る…といった意地の張り合いはすばらしい接戦を生んだそうです。

チームとしてはニコニコドーは最終5区でリクルートに破れ総合3位にとどまるも、4区は松野さんが区間新記録で区間賞をとられています。

また同年九州実業団駅伝では10キロの非公認ロード記録・30分59秒をマークされてもいます。


初マラソン 


1991年世界陸上東京大会では、10000mに出場した松野さんは故障上がりということもあり予選12位に終わり、決勝進出は成らなかったそうです。

予選レース後の記者会見では泣きながら「この小さな身体でよく頑張った自分を褒めてやりたい」とコメントされ、今後は長距離トラック競技からフルマラソン種目に転向する事を表明されます。

1992年1月、バルセロナオリンピック・女子マラソンの代表選考レースを兼ねた大阪国際女子マラソンに松野さんはマラソン初出場されます。


この大会では松野さんと同じくこの大阪国際が初マラソンだった小鴨さんが、2時間26分26秒でレース当時の日本女子最高記録と及び初マラソン世界最高記録をマークして初優勝を果たされ、それから36秒後に松野さんも日本最高記録(当時は有森裕子さんの2時間28分01秒)を59秒上回る、2時間27分02秒の好記録で2位に入るられます。

この結果を受け、前1991年8月開催の世界陸上東京大会・女子マラソンにおいて2時間29分57秒で日本女子トップの2位入賞・銀メダル獲得により、既に日本代表に内定していた山下佐知子さんと、大阪国際女子マラソン優勝者・小鴨さんの二人と共に、松野さんも女子マラソンの種目で「バルセロナ五輪代表入りはほぼ確実」とも言われていたそうです。

バルセロナ五輪女子マラソン代表選考騒動


ところが、日本陸連関係者の間では国内選考レースで記録が良かった松野より、昨年8月に酷暑の中世界陸上東京大会女子マラソンで2時間31分08秒で4位入賞の実績を残した、有森裕子さん(リクルート)を推す声が高いという噂が出たことも有ったのか、ある日の新聞で『(バルセロナ五輪女子マラソン日本代表の)3人目は有森か松野か』と大きく記事にした紙面を見た松野さんは愕然とし、「有森さんはマラソンで世界陸上しか走ってないし、国内選考会は一度も出ていないのに?何で私と有森さんとが比較されてしまうの??」と、内心怒りがこみ上げたそうです。

その五輪女子マラソン代表選手発表の2日前、急遽松野さんは地元の熊本市内で、自ら異例の記者会見まで開くこととなったそうです。

松野さんは岡田監督らの同席の下、会見の席で駆け付けた新聞記者達やマスコミ陣、そして日本陸連に対して迄「私、ホント(オリンピック)に出たら、メダル…獲れるとは、本当に確実に思っていますので、その為にも今精一杯頑張ってますので、どうぞ…選んで下さい(笑)」「やっぱり、強い人は強いと思いますので、強い人を選んで欲しいです。(私は)負けませんから!」などと終始笑顔でアピールし続けられたそうです。

一方、有森さんは国内選考レースには出なかった(当初有森も大阪国際女子マラソンにエントリー、松野との直接対決が注目されたが左足のケガで欠場)ものの、10km等のロードレースを出走し優勝するなど、故障の不安が無いことを強調されました。

バルセロナ五輪女子マラソン選考決定の当日まで、松野さんと有森さんのどちらに当落となるのか、全く分からない混迷状態となっていたそうです。

1992年3月28日、結局バルセロナ五輪の女子マラソン代表へ正式に選ばれたのは山下さん・小鴨さんと、そして最後の3人目は有森裕子さんだった。

しかも日本陸連は松野さんに対し「前回のソウル五輪同様、女子10000mで選出される可能性がある」との理由で、補欠代表にも選ばなかったそうです(補欠は谷川真理さん)。

この騒動の根本的な原因は、五輪代表選考にとって91年世界陸上4位の有森さんがどういう位置づけなのか、つまり「世界陸上のマラソン競技が選考レースなのかどうか」「世界選手権4位入賞は代表内定なのか」「代表内定と決定はどう違うのか」などを当時の日本陸連は明言していなかったことにあるそうです。

松野さんは余りのショックに泣き崩れて混乱状態となり、落選時の記者会見には出席出来ず、ニコニコドーの小山部長と岡田監督の二人のみが会見に出席したそうです。

その席で岡田監督も「何故落選となったのかが全く理解出来ない。松野が余りにも可哀想で、凄く残念でならない」「今さら10000mで松野を五輪に出場させるつもりは無い」と悔し涙を見せたそうです。

このような基準の不明瞭な選考により、「裏では金が動いていたのではないか」「陸連の内部対立があったのでは」「あの記者会見は逆にマイナスに作用したのかも」など根拠のない様々な憶測や噂がテレビや週刊誌をにぎわすこととなったそうです。

またその後、1992年8月のバルセロナ五輪女子マラソン本番で、有森さんが日本女子陸上選手として64年ぶりの2位入賞・銀メダルを獲得したことにより、選考結果に対して肯定的な風潮となり、松野さんは苦しまれたそうです。

さらに松野さんはその後、当時有森さんの方が自身よりもマラソン自己記録は遅いのに、自分が五輪に落選して有森さんが選出された事に一切納得出来ず、それから松野さんは心中有森さんをずっと妬み憎しむようになったそうです。

五輪代表落選後

松野さんは日本陸上・長距離界の女王から一転悲劇のヒロインとられ、失意の中、マラソンで次の1996年アトランタオリンピック女子マラソン代表を目指されます。

しかし、1992年8月の北海道マラソン・女子の部では20Km過ぎで優勝争いから脱落、30度近い気温と強い風が終盤松野を苦しめ、結局2時間38分台の4位になられます。

翌1993年1月の大阪国際女子マラソンに出走予定だったが故障により欠場、同年3月の名古屋国際女子マラソンで松野は進退をかけてレースに臨んだ。その名古屋ではレース終盤まで優勝争いを演じ、優勝したカミラ・グラダス(ポーランドの旗 ポーランド)にあと一歩及ばなかったが、日本人トップの2位になられます。

その後同年大阪国際で優勝した浅利純子さん、2位の安部友恵さんとともに、1993年世界陸上シュトゥットガルト大会女子マラソン代表入りの切符を手にされますが、結果は11位になられます。

引退


1995年12月28日、足の故障が完治しない事を理由に、松野さんは翌1996年のアトランタ五輪女子マラソンへの国内選考会出場を断念、現役引退を表明されます。

引退の直接のきっかけは、いじめられっこだった松野さんが、陸上を始めるきっかけを与えてくれたお母さんユイ子の「もういいんじゃないかい」という言葉だったそうです。

引退記者会見で「今一番やりたいことは?」と聞かれた後、松野は「できることならもう一度走りたい」と涙を浮かべられました。

引退後は、ニコニコドー人事部係長を務められます。

同時に、1996年から2000年まで熊本県民テレビでスポーツキャスターも務めておられます。


現役引退後、松野さんは週刊誌媒体で日本陸連を告発するような以下の発言をされているそうです。

「私はあの時、何も無理やりお願いするつもりで『私を選んでください』って記者会見を開いたんじゃないんです。あの時は絶対オリンピックの女子マラソン代表に選ばれると思って『頑張って金メダルを取ります』っていう挨拶だったんです」
「代表発表の日も期待感一杯で、まさか落ちるなんて考えもしなかった。ニコニコドーの合宿所で岡田監督に呼ばれた時、朗報だと思って飛んでいったんです。そしたら『落選』って聞かされて、頭の中がもう真っ白!その直後の事はよく覚えていませんが、それからマラソンをずっと恨み続ける毎日でした。なんでこんな裏切られ方をするのかって」
「別に有森裕子さんをけ落として出たいっていうんじゃなくて、私はマラソンで五輪に出たかっただけなんです。有森さんを恨んではいませんが、でも私よりタイムが悪かった有森さんが何故選ばれたんでしょうか?今でもよく分からないです、はい」


松野さんと有森さんはバルセロナ五輪の当時以来長らく会う機会がなかったが、2011年にTBSで放映されたドキュメンタリー「ライバル伝説・光と影」において、約20年ぶりとなる顔合わせが実現したそうです。

この番組は好評を博し、映像を追加する形で2012年6月に映画として公開されたそうです。

初日の舞台挨拶に出席した有森さんに松野さんが「お話できて本当に良かった。つらかったのは私だけじゃなかったと知り、心の中に残っていたものがスッとなくなりました。でも今でも『私なら金(メダル)を獲れた』と思っています(有森・舞台客らも思わず苦笑していた)。いつか一緒に走りましょう」という電報を送ったことが、有森さんより紹介されたそうです。


1999年、ニコニコドー陸上部休部とともに退社し、独立して「松野明美ヒューマンライフ」という事務所を設立されます。

現在は講演やタレント活動などを行っている。

また、岡田元ニコニコドー監督が亜細亜大学陸上部監督になった縁で、1999年から2001年まで亜細亜大学陸上部女子のコーチにも就任され後進の指導もされています。


松野明美さんの主な記録

1987年10月 海邦国体(沖縄国体) 5000m優勝 16分35秒64
1987年12月 第7回全日本実業団対抗女子駅伝(非公認10キロロード日本最高記録32分17秒をマーク)(ニコニコドーは7位)
1988年1月 第6回全国都道府県女子駅伝 9区区間賞(熊本チームは4位)
1988年5月 兵庫リレーカーニバル 10000m優勝 32分57秒89
1988年6月 日本陸上競技選手権大会優勝 10000m優勝 32分53秒75
1988年6月 ソウルオリンピック 10000予選9着 日本新記録 32分19秒57
1988年12月 第1回国際千葉駅伝 6区区間2位(日本チームは4位)
1989年4月 熊本県選手権 10000m日本新記録 31分54秒0(日本女子初めての31分台)
1989年12月 バルセロナ国際女子駅伝 2区区間賞 (日本チームは2位)
1990年1月 第8回全国都道府県女子駅伝 9区区間賞(熊本チームは2位)
1990年2月 第8回横浜国際女子駅伝(日本チーム初優勝)
1990年6月 日本陸上競技選手権大会 10000m2度目の優勝 32分18秒71
1990年9月 北京アジア大会10000m銅メダル 31分56秒93
1990年10月 九州実業団駅伝(非公認10キロロード日本最高記録30分59秒をマーク)
1990年12月 第3回国際千葉駅伝 1区区間賞(区間新記録)(日本チームは2位)
1990年12月 第10回全日本実業団対抗女子駅伝 4区区間新記録(ニコニコドーは3位)
1991年8月 世界陸上(東京大会)10000m予選12着 32分31秒18
マラソン
1992年1月 大阪国際女子マラソン 2位(1位は小鴨由水)2時間27分02秒(小鴨と共に当時日本最高記録)
1992年8月 北海道マラソン 4位(1位はO.アペル)2時間38分24秒
1993年3月 名古屋国際女子マラソン 2位 (1位はK.グラドゥス)2時間27分53秒
1993年8月 世界陸上(シュトゥットガルト大会)マラソン 11位(1位は浅利純子、3位は安部友恵)2時間38分04秒


めぐめぐがすごいと思う松野明美さんのこと

1家族に愛されて陸上を極め、そして今は家族を大切にしながらスポーツ選手後の人生を楽しまれていること

2怪我や故障などと戦いながら、多くのライバルがいた日本女子長距離選手の中で素晴らしい成績をあげられていること

3マラソン選手としてオリンピックに出場できなかったけれども、そのつらい経験を乗り越え、現在明るく活躍されていること


TVなどでの現在のご活躍の笑顔の裏に辛い長い苦しい経験があられたのだということを知ると、本当につらいことを知った人が本当に笑顔になれるのだと思いました。


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