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第12週 月曜日 歴史上の人物 広岡浅子

第12周目の歴史上の人物はNHKの朝の連続テレビ小説あさが来たで有名になった日本の実業家、教育者、社会運動家の広岡朝子さんです。


広岡 浅子(旧字:廣岡淺子ひろおか あさこ)さんは1849年10月18日(嘉永2年9月3日) 京都油小路通出水の小石川三井家六代当主・三井高益の四女として生まれられました。

お父さんの  三井高益氏は(1799年 - 1858年) - 小石川三井家6代当主で。京都市上京区大黒屋町に広大な屋敷を構えていたそうです。

その一部は現在、ホテル「ルビノ京都堀川」になっています。


正妻との間に三女一男があったがいずれも早世、高喜氏を別の三井家(南家)から養子に取り、48歳のとき家督を譲りました。59歳で亡くなっています。


浅子さんは高益50歳のときの娘で、別腹の子だそうです。

浅子の姉・春さんも別腹で、二人とも母親の名は不明だそうです。

春さんは浅子さんより2歳上の異母姉で、高喜の養女として三井家に入家。浅子が嫁いだ6日後に両替商の天王寺屋五兵衛に嫁がれています。25歳でなくなっています。


浅子さんの幼名は照だそうです。

幼い頃より裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古などよりも、四書五経の素読など学問に強い興味を持っていたそうです。

しかし「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられる。9歳で父親が没し、35歳の高喜氏が家長となりました。

高喜の長男三井高景氏(1850年 - 1912年)は浅子さんと1歳違いで姉弟同然に育ち、浅子からは「愛弟」と呼ばれました。幼名は弁蔵。

後に小石川家第8代当主となり、号は三郎助。妻の寿天子とともに浅子の学校設立を支援されます。


さて浅子さんは17歳(数え年、以下同様)で鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった加島屋の第8代広岡久右衛門正饒(まさあつ)の次男・広岡信五郎氏と結婚。嫁いだ後も、主人は手代に任せて業務に関与しない商家の風習に疑問と限界を感じ、簿記や算術などを独学するようになります。

浅子さんは1876年(明治9年)一人娘の亀子さんを産んでおられます。



浅子さんは20歳で明治維新の動乱を迎えます。

家運の傾いた加島屋を救うため実業界に身を投じ、夭逝した正饒の長男に代わり加島屋当主となった第9代広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)、夫の広岡信五郎と共に、加島屋の立て直しに奔走されます。


1884年(明治17年)頃から炭鉱事業に参画されます。

筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鐵所二瀬炭鉱)を買収して、開発に着手されます。

単身炭鉱に乗り込み、護身用のピストルを懐に坑夫らと起き伏しを共にしたと伝えられています。

男もためらうような冒険的事業に敢えて乗り出したので、しばしば狂人扱いされたそうです。

そして1888年(明治21年)に加島銀行を設立し続いて1902年(明治35年)に大同生命創業に参画します。

娘亀子さんは子爵・一柳末徳氏の次男広岡恵三氏(1876年 - 1952年) と結婚されます。恵三氏は東京帝大卒業後三井銀行を経て、加島屋経営に加わります。加島銀行頭取、大同生命2代目社長になられます。大阪電気軌道初代社長にも就任したが、浅子がリスクを察知して辞任させたそうです。

また父親と不仲だった実妹の一柳満喜子さんも留学前の若いころ広岡家で暮らしていたそうです。


恵三氏の神戸市東灘区の私邸は、現在甲南女子大学になっているそうです。


こうして加島屋は近代的な金融企業として大阪の有力な財閥となる。これらの活躍により、広岡浅子は鈴木よねさん、峰島喜代子さん(尾張屋銀行、峰島合資会社の経営者)らと並び明治の代表的な女性実業家として名を馳せるようになります。


また1896年(明治21年) 土倉庄三郎氏の紹介により、1896年(明治29年)、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵氏の訪問を受け、成瀬の著書である『女子教育』を手渡されます。

幼い頃に学問を禁じられた体験を持つ浅子さんは『女子教育』に大いに共感し、金銭の寄付のみならず、成瀬と行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者となりました。

広岡家、実家の三井家一門に働きかけ、三井家から目白台の土地を寄付させるに至り、1901年(明治34年)の日本女子大学校(現・ 日本女子大学)設立に導きかれました。



こうして浅子さんは日本女子大学校の発起人の一人であり、創立当初の評議員となられます。

また夫(広岡信五郎)は女子大学校の創立委員の一人になりました。



開講3年目となる1904年(明治37年)、夫(広岡信五郎)の死去を機に事業を娘婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に譲られます。

以後は女子教育や婦人事業に貢献することを是とし、社会貢献事業と自身の学問に専念され、長井長義氏らに学ぶ傍らで愛国婦人会大阪支部授産事業の中心的人物としても活動されました。

1909年(明治42年)1月に大学病院において胸部の悪性腫瘍手術を受け回復。同年年末に大阪の菊池侃二宅で宮川牧師と知り合い、同席者の成瀬から宗教哲学を勧められた縁で1911年(明治44年)に宮川経輝より受洗されます。

 婦人運動や廃娼運動にも参加し、当時発行が相次いでいた女性雑誌に多数の論説を寄せています。

「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、宮川による『心霊の覚醒』や自らの宗教的信条を記した『一週一信』を出版して日本のキリスト教化に励まれました。

日本YWCA中央委員、大阪YWCA創立準備委員長を務めておられます

日本女子大学設立後も浅子の女子教育に対する情熱は衰えることがなく、1914年(大正3年)から死の前年(1918年)までの毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰されています。

参加者には若き日の市川房枝さんや村岡花子さんらがいたそうです。

このころ東京芝材木町、現在の六本木ヒルズ、ハリウッドビューティプラザのところに親戚の建築家ヴォーリスの設計で4階建ての家を建てています。

1919年(大正8年)、腎臓炎のため東京・麻布材木町(現・六本木6丁目)の別邸にて死去されます。享年71(満69歳没)でした。

「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかったと言われる。生前から「(子孫には)不動産で資産を残してやりたい」と各地に別邸・別荘を積極的に建築していたそうです。


葬儀は東京と大阪で2度行なわれ、浅子の功績を称え、日本女子大学校では同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催したそうです。


著書
『一週一信』(婦人週報社、1918年〈大正7年〉):週刊新聞『基督教世界』に九転十起生のペンネームで寄稿した内容に、70歳までの自伝を加えて書籍化したものがあります。

たくさんの伝記があります


『歴史小説家・小前亮が、大同生命や三井家、日本女子大学に残された史料などを元に書いた、史実ベースの伝記本です。


古川智映子『小説 土佐堀川 女性実業家・広岡浅子の生涯』(1988年、潮出版社、2015年、新装改訂版 (ISBN 9784267019937)、下記の連続テレビ小説第93作『あさが来た』の原作)








めぐめぐがすごいと思う広岡浅子さんのこと

1幼児期の辛い思い出から、女性が勉強するという機会を作ることを大切に思われ、日本女子大学の基礎を作られたこと。

2実業家として、様々なビジネスを展開され、危ないと思ったら引く素晴らしい才能を持っておられたこと。

3亡くなるまでずっと学ばれ、大学だけでなくすべての女性の向上のために活動され、その活動を引き継ぐ多くの女性を育てられたこと。


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