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第19週 作家・歌人・漫画家 与謝野晶子

19人目の作家・歌人は歌人、作家、思想家で雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった与謝野晶子です。


与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさのあきこ)は1878年(明治11年)12月7日 鳳志ようとして、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・甲斐町西1丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七氏、母・津祢の三女として生まれました。

家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育ったそうです。

 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎氏がいます。

志ようさんは9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習われます。

堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しまれました。

またお兄さんの影響を受け、「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)『文学界』や尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であったそうです。


20歳ごろより家の店番をしつつ和歌を投稿するようになられます。

浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹氏と不倫の関係になり、鉄幹氏が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表されます。

翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立されました。

歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立されました。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなったそうです。

そうして所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれたそうです。

代表歌は以下の通りです。

髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ
清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき
柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君



のちに鉄幹氏と結婚し、子供を12人出産しておられるそうです(うち1人は生後2日で亡くなっています)。

長男・光(1902年11月[11] - ?)
次男・秀(1904年7月[11] - 1971年1月。外交官)
秀は外交官としてイタリア・エジプト大使などを歴任し、1964年東京オリンピック事務長を務めた。
次男の妻・道子(1915年6月 - 2000年10月。評論家、随筆家)
長女・八峰(1907年3月[11] - ?)
次女・七瀬(1907年3月[11] - ?。八峰と双子) 
三男・麟(1909年3月[11] - ?)
三女・佐保子(1910年2月[11] - ?)
四女・宇智子(1911年2月[11] - ?)
四男・アウギュスト(1913年4月[11] - ?。後に碰(いく)と改名)
五女・エレンヌ(1915年3月[11] - ?)
五男・健(1916年3月[11] - ?)
六男・寸(1917年10月[11]。生後2日で死亡)
六女・藤子(1919年3月[11] - ?)
孫・馨(1938年8月 - 2017年5月。政治家)
孫・達(1941年[12] - 。金融家)
孫・文子(1947年5月 - 。詩人、美術評論家)
孫・久(1946年 - 。建築家)
曾孫・信(1975年6月[13] - 。政治家)



1904年(明治37年)9月、半年前に召集され日露戦争の旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表します。

なお、晶子さんの弟の鳳籌三郎氏は日露戦争から帰還し、1944年(昭和19年)まで生きておられますが、彼の所属した歩兵第8連隊はこの詩が詠まれた頃は遼陽会戦を戦っており、旅順攻囲戦には参戦していない可能性が高いそうです。

その3連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子さんと親交の深い歌人であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判しました。

晶子さんは『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月氏に反論しました。


日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができるそうです。

大町桂月氏は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹と平出修の直談判により、桂月氏は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束したそうです。

現在、ほとんど大町桂月氏がの知られていないのは、こうした当時としては「常識的」で「多数派」であった発言が、後年の目から見れば国粋主義的に写ることから来ている面もあるそうです。

この後、1925年(大正14年)6月11日、57歳で病没した大町桂月氏に晶子さんは「横浜貿易新報(現在の神奈川新聞)」に追憶をよせているそうです。

この騒動のため晶子さんは「嫌戦の歌人」という印象が強いのだそうですが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っているそうです。

満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を晶子さんは作ったそうです。

例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」などがあります。

このようなことから、反戦家としては一貫性がなかったということが出来るそうです。

1910年5月各地で多数の社会主義者,無政府主義者が明治天皇暗殺を計画したとの理由で検挙され,翌年1月 26名の被告が死刑その他の刑に処せられた大逆事件の際には秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年(明治44年)3月7日に『東京日日新聞』に発表しておられます。

刑死者の一人大石誠之助氏は晶子さんと『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった管野スガさんは未決在監中に弁護士・平出修氏に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子さんは直接差し入れなかったことの悔恨を小林天眠氏への手紙に残しているそうです。


1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿されています。

『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。同年、文部省と内務省が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子さんは「栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っているそうです。

文芸委員会に対しては、夏目漱石氏も同意見だったそうで「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っているそうです。

1912年『新訳源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤りが多く、外遊の資金調達のために急ぎ、また、校訂に当たった森鷗外は『源氏物語』の専門家でないなど欠陥が多いものだった。

そのため、一からやり直し、源氏54帖のうち最後の『宇治十帖』を残すまで書き上げたが、1923年9月1日起きた関東大震災のために文化学院にあった原稿が灰になってしまったそうです。

またも一からやり直し、さらに17年かけて6巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。1938年(昭和13年)10月より刊行し、翌年9月に完結しました。


1912年(明治45年)、晶子さんは鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになりました。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わったそうです。

同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子さんのパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じたそうです(平塚らいてうさんなど総勢500余名が見送ったそうです)。

翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が組まれたそうです。

晶子さんは敦賀港から船でロシアのウラジオストク港へ渡りウラジオストク駅からシベリア鉄道に乗りモスクワ経由でパリへ旅立ったそうです。

その際に詠んだ 「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、 颶風の羽は東より いざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、なきながら、 頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。 女の恋のせつなさよ。晶子や物に狂ふらん、 燃ゆる我が火を抱きながら、 天がけりゆく、西へ行く、 巴里の君へ逢ひに行く。与謝野晶子」と書かれた石碑がウラジオストクの極東連邦大学東洋学院の敷地にあるそうです。

5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子さんは、9月21日にフランスのマルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れたそうです。

また帰国してから2年後1914年鉄幹氏との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説かれました。

1915年(大正4年)に読売新聞に『駄獣の群』という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表されました。

また、晶子さんは婦人参政権を唱え、『婦選の歌』を作っている。この歌は山田耕筰氏作曲で第一回全日本婦選大会において披露された。

1918年 反良妻賢母主義を危険思想だと見ていた文部省の取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうさんの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと晶子さんは論評し、平塚らいてうさん、山田わからさんを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張されました。

ここで論壇に登場した女性解放思想家・山川菊栄さんは、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理したそうです。

こうしてこの論争は文部省の意向とは全く違う次元で1921年に終始したそうです。

この論争については以下のHPに詳細な解説があります。


また晶子さんは『中央公論』1919年(大正8年)5月号に「教育の国民化を望む」(単行本『激動の中を行く』にした時『教育の民主主義化を要求す』と改題)という文を書いている。各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案している。今の教育は「文部省の専制的裁断に屈従した教育」であるから、それを「各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任」し、それによって「教育が国民自身のものとなる」と主張している。他にも、ヨーロッパの老婦人が若い婦人とさまざまの社会奉仕に努力する姿を見て、日本にも成人教育や社会教育の場を作るよう提言している。



1921年(大正10年)に建築家の西村伊作氏と、画家の石井柏亭氏そして夫の鉄幹らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設されます。

そして男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させました。


1924年(大正13年)文化学院、専門学校および高等専修学校式歌(校歌)「賀頌」を作詞されています。

そしてのち文化学院女学部長に就任されてもいます。


与謝野家は子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず晶子さんは孤軍奮闘されたそうです。

来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたそうです。

このような多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶそうです。

『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残されました。

1940年5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になられます。

同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去されます。戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉。

墓は多磨霊園にあります。

晶子が死去する直前に病床で書いた、短歌の草稿ノートが2014年に発見された。短歌は約90首収録されており、日付は1941年10月から1942年1月2日となっているそうです。


めぐめぐがすごいと思う与謝野晶子さんのこと

1特に文学部で学ぶなどをせず、子ども時代に学んだ古典でキャリアを積まれていること。

2源氏物語を何度も火災で焼けるなどの困難を乗り越え、26年の歳月をかけ出版されていること。

3そして女性の生き方を問い、様々な評論もされていること



私は今年初めて与謝野晶子の源氏物語をすべてaudiobook.jpで聴きました。

コロナのロックダウンのおかげです。

流石に26年かかっているとは知りませんでしたが、本当に大変な作業だったろうなと思います。




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