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第16週 月曜日 淡谷のり子

16人目の歴史上の人物は日本のシャンソン界の先駆者女性歌手の淡谷のり子さんです。


淡谷 のり子(あわや のりこ)さんは1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、
1907年、青森市の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれられます。妹さんがいらっしゃいます。

1910年の青森市大火によって生家が没落することになります。そして10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立青森高等女学校を中退しお母さんと妹さんと共に上京されます。

東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学されます。

後にソプラノ歌手の荻野綾子さんに声楽の資質を見出されて声楽科に編入し、オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学ばれます。

しかし家がだんだんと貧しくなったため、また妹さんの失明の危機もあり、学校を1年間休学して絵画の裸婦のモデルを務めるなどして生活費を稼がれます。当時は「霧島のぶ子」を名乗っており、この時期、淡谷の裸婦像を描いた画家に 岡田三郎助氏、田口省吾氏、前田寛治氏がいるそうです。

その後、復学し首席で卒業。春に開催されたオール日本新人演奏会(読売新聞主宰)では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い十年に一人のソプラノと絶賛されます。


世界恐慌が始まる1929年の春に卒業。母校の研究科に籍を置かれます。

母校主宰の演奏会でクラシックの歌手として活動されます。

しかしクラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌うようになられます。

1930年1月、新譜でポリドールからデビュー盤「久慈浜音頭」が発売します。

キングレコードでも吹込みをはじめる。当時、佐藤千夜子の活躍以来、奥田良三、川崎豊、内田栄一、四家文子ら声楽家の流行歌への進出が目立っていた時代でした。

1930年6月、浅草の電気館のステージに立たれます。

映画館の専属となりアトラクションなどで歌うようになられます。

当時、東洋音楽学校からは青木晴子さん、羽衣歌子さんらが流行歌手として活躍していたが、東京音楽学校出身の声楽家が歌う流行歌よりも低い価値で見られていたそうです。

淡谷さんは流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消されたこともあったそうです、しかしその後年復籍されています。


1931年コロムビアへ移籍されます。

古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒットします。

淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となられます。

日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、スターダムへ登りつめる。ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌うという努力をされています。

その後も数々の曲を世に送り出し名をとどろかせる。

その当時に淡谷のピアニストを務めていた和田肇氏(1908〜87)と1938年に結婚するが、翌年離婚。その後は生涯独身であられました。


戦時下で多くの慰問活動を行い「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念の元、その後の第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を慰めながら歌い送っていた。

「英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えて英語で歌唱する」、「恋愛物を多く取り上げる」といった行為の結果、書かされた始末書は数センチもの厚さに達したと言われています。


戦後はテイチク、ビクター、東芝EMIで活躍されます。

やがて、ファルセット唱法(歌手が特に高いピッチ(音高)に対応するために作り出す声色、及びその発声技術)で歌われます。

声楽の基礎がしっかりしているので、胸声一本ではなくハイトーンを失わないところに特に淡谷のり子さんの歌唱技術の深さがあったそうです。

1953年に『第4回NHK紅白歌合戦』に出場、紅白初出場を果たされます。

NHKの公式資料によれば、同紅白で初出場ながらいきなり紅組トリを務めたとなっている。また、紅白で第1回を除いて初出場でトリを務めたのは淡谷さんのみだそうです。

この頃からテレビのオーディション番組の審査員やバラエティ番組などに出演する。歌手オーディションでマイクの前で歌う経験がなく、セーブせずにホールで歌うように歌唱して不合格になった程の圧倒的な声量と、音楽的な基礎を学んできた自らの経験から辛口の発言が多く、1965年の『NHK紅白歌合戦』では「今の若手は歌手ではなく歌屋にすぎない」、「歌手ではなくカス」の発言で賛否両論を巻き起こし話題となられました。

しかし複数の歌手や作品に対しては高く、もしくは一定の評価をしており、晩年は五輪真弓の「恋人よ」をレパートリーに取り入れていた。同楽曲で1982年4月1日放送のTBS『ザ・ベストテン』のスポットライトのコーナーに出演したことがある。一方で、大物とされるような歌手であっても嫌いな歌手に関してテレビ番組等で堂々と公言しておられました。

そして1970年代前半には、『全日本歌謡選手権』(よみうりテレビ)の審査員も務めたが、この番組から世に出た五木ひろし氏について、同番組審査員の山口洋子さんは五木に高得点を付けたが、淡谷は落とす方に回ったと後に述懐しておられるそうです。

1979年、津軽三年味噌(かねさ)の広告に出演。淡谷さんが口にしたコピー「たいしたたまげた!」(方言で「とても驚いた!」)は当時の流行語になりました。


1980年代から1990年代にかけて、フジテレビ『ものまね王座決定戦』の名物審査員として若者からも人気となられました。

審査員としては辛辣な評価が有名で、コロッケ氏のネタによく破顔一笑していた一方で清水アキラ氏が披露する下品かつ悪ふざけに近い物真似 に対しては、非常に厳しく採点していたそうです。




淡谷の死後、コロッケは一時期淡谷の物真似の封印も検討したが、淡谷の実妹である淡谷とし子から「若い世代の人にも淡谷の名前を知って貰いたい」と言われ、死後20年近くなる現在でも淡谷の物真似を披露しておられます。



また、小堺一機氏司会のフジテレビ『ライオンのいただきます』にも度々出演。「自分の母親に似ている」という原ひさ子さんと仲良くなったという。スタジオでも淡谷が原の手を引いて歩くほどだったが、実は淡谷さんの方が年上だったというエピソードがあるそうです。

晩年まで淡谷のり子さんはテレビやコンサートで精力的に活動を続けられましたが、長年の音楽仲間で戦友ともいえる藤山一郎氏・服部良一氏が死去した1993年に脳梗塞で倒れられます。

軽度ではあったが言語症や手足にマヒが残るなど体調は悪化し、この頃から急速に仕事への意欲を失い始められました。

この時期、自身のライブを録音したテープを聴き「これでは人様に聴かせられない」と絶句され、一線を退く決心をしたとも言われ、露出は無くなったそうです。

1990年代にはゲルマニウム美容ローラーの広告に他界するまで契約を結んでおられました。

一時期は淡谷さんが愛用している旨のテレビ広告が盛んに流れていたため、清水アキラ氏やコロッケ氏が淡谷さんの物まねをするときには小道具として使用していたそうです。

晩年、テレビ等への露出が減った際にも広告に「復帰はもう少し待ってくださいね」などとメッセージを寄せ、淡谷が他界すると美容ローラーのメーカーは「ありがとう淡谷のり子さん」と追悼広告を新聞に出したそうです。

晩年は寝たきりとなり療養生活を送っていた1996年、後輩たちによって淡谷さんの米寿記念コンサートが行われ、久々に姿を現した。このコンサートの際に森進一に「別れのブルース」を、美川憲一に「雨のブルース」を、「それぞれ形見分けではないですが差し上げます、歌っていって下さい」と発言され、話題を呼んだそうです。

しかし、これは周囲が勝手にお膳立てをしたもので、淡谷さん本人や妹のとし子(同居人で姉の介護にもあたっていた)は、このことを知らされておらず、報道後も(形見分けなど)認めていなかったということです。そして、このコンサートのフィナーレで全員合唱の中、口ずさんだ「聞かせてよ愛の言葉を」が人前で歌った淡谷さん最後の歌唱となったそうです。

軍歌と演歌を嫌い、このようなコメントを残されているそうです。

軍歌はもちろんだけど演歌も大嫌い。情けなくなるの。狭い穴の中に入っていくようで望みがなくなるのよ。私は美空ひばりは大嫌い。人のモノマネして出て来たのよ。戦後のデビューの頃、私のステージの前に出演させてくれっていうの。私はアルゼンチン・タンゴを歌っているのに笠置シヅ子のモノマネなんてこまちゃくれたのを歌われて、私のステージはめちゃくちゃよ。汚くってかわいそうだから一緒に楽屋風呂に入れて洗ってやったの。スターになったら、そんな思い出ないやっていうの。
— 西村建男「余白を語る――淡谷のり子さん」朝日新聞1990年3月2日



1998年10月、故郷の青森市名誉市民の推戴式に車椅子姿で姿を現したのが、生前公の場に立った最後になられました。

翌1999年9月22日、老衰により死去されます。

その死は一般紙でも一面で報じられ、テレビでも複数の追悼番組が放送された他、多くの雑誌で追悼記事が掲載された。

ステージ衣装が一着のみではあるが、群馬県渋川市の日本シャンソン館に展示されているそうです。

淡谷のり子さんは以下の賞を受賞されています。

賞歴
1971年:第13回日本レコード大賞特別賞
1972年:紫綬褒章受章
1972年:佐藤尚武郷土大賞
1976年:NHK放送文化賞(第27回)
1978年:青森市制施行八十周年記念文化賞
1978年:日本レコード大賞特別賞
1979年:勲四等宝冠章受章
1983年:芸能功労者表彰(第9回)
1987年:日本作詩大賞特別賞(第20回)
1998年:青森市の名誉市民(4人目、女性では初)


今回書くに当たりこの番組を発見しました。

大変興味深いです。



今買えるCDは以下のようなものがあります。






めぐめぐがすごいと思う淡谷のり子さんのこと

1裕福な家に生まれ、その後大変苦労され、その中でシャンソンを歌うという道を開かれたこと

2仕事のためにすべてをかけて、いつも新しいことにチャレンジされていたこと。

3自分に芯のある生き方を最後まで貫かれたこと。



私は物まねの審査員でしか知らない世代ですが、淡谷のり子さんのソプラノの声聞いて見たかったなあと思います。

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