第34週 歴史上の人物 静御前
はじめに
今週の歴史上の人物は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性源義経の妾の 静御前です。
お生まれ
静御前(しずかごぜん)の生没年は不詳です。
静は、京都府京丹後市網野町磯地区で禅師の娘として誕生したとされ、記念碑が立っています。近くには静神社があります。
母は磯禅師です。
生涯
静御前が出てくるのは『吾妻鏡』です。
この本によれば、
1185年源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経は京を落ちて静御前と共に九州へ向かいます。
義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻されます。
そこで吉野で義経と別れ静御前は京へります。
しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られます。
同年4月8日、静御前は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。
静御前は、
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けたそうです。
『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。
この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じたそうです。
7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかったそうです。
磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められたそうです。
9月16日、静と磯禅師は京に帰された。
憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。
その後の消息は不明だそうです。
静御前の伝説
静御前に関して史料による記録が見られるのは、上記の『吾妻鏡』のみであり、同時代の都の貴族の日記などで静に関する記録は一切見られないそうです。
『吾妻鏡』は時の権力者で源氏から政権を奪った北条氏による編纂書であり、静の舞の場面は源氏政権の否定、北条氏(政子)礼賛という北条氏の立場に拠ったものである事から、北条氏の政治的立場による曲筆との見方もあるそうです。
また、史実から確認できる静以外の義経の妻妾は河越重頼の娘(正室・郷御前)と源氏の敵である平時忠の娘(蕨姫)しかいないが、北条氏と政治的に対立した比企氏の存在を否定的に描く『吾妻鏡』では、比企氏の外孫である重頼娘の存在感を消すための曲筆の手段として静御前の存在を利用したとする見方もあるそうです。
その他のエピソードは、鎌倉時代に成立した軍記物語である『平家物語』「土佐房被斬」章段の一部と、室町時代初期に書かれた『義経記』の創作によるものだそうですある。
『義経記』によると、日照りが続いたので、後白河法皇は神泉苑の池で100人の僧に読経させたが効験がなかったので、100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせました。
99人まで効験がなかったが、静御前が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いたそうです。静は法皇から「日本一」の宣旨を賜りました。
また法皇は、静を見て「カノ者ハ神ノ子カ?」と感嘆したそうです。
その後、住吉での雨乞いの時に、静を見初めた義経が召して妾にしたそうです。
地方に伝わる静御前の伝説
宇都宮市教育委員会発行の「宇都宮の旧跡」(1989年発行)、同じく宇都宮市教育委員会発行の「宇都宮の民話」(1983年発行)によると宇都宮二荒山神社の下之宮西側に鏡ヶ池という大きな池があり、そこから発見された鏡が静御前が奥州の源義経のもとへ向かう途中に、義経の無事を祈願するために、立ち寄った宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で、参拝前に手を清めた際に落とした鏡とされています。
その鏡は宇都宮大明神に奉納されたとされている。また、宇都宮七名水の一つとされる「亀井の水」(宇都宮市下河原)はお供の亀井六郎が槍で地面を突いた際に湧き出た水で、静御前のどの渇きを潤したと伝わっているそうです。
そして宇都宮大明神を後に日光街道を北上した現在の宇都宮市野沢町には御前桜・静さくらが現在まで伝わっています(現存する桜は12代目)。
奥州へ向かう途中、源義経が衣川で討ち死の報をこの地で聞いたとされ、静御前が源義経より贈られ大切にしていた桜の杖を地にさしたところ芽が吹き後の世まで伝わったとされています。
御前桜・しずか桜
義経終焉の地とされる衣川、静御前の墓と伝わる埼玉県久喜市栗橋の「静女の墳」にはしずか桜が植えられています。
これは栃木県宇都宮市野沢の御前桜、しずか桜が原木で、この原木より接ぎ木して現代に伝わったものであるそうです。
終焉の地
静の死については諸々の伝承があるが、はっきりしたものはない。自殺説(姫川(北海道乙部町)への投身、由比ヶ浜への入水など)や旅先での客死説(逃亡した義経を追ったものの、うら若き身ひとつでの移動の無理がたたったというもの。静終焉の地については諸説ある)など列挙すればきりがないが、いずれにせよまだ若年のうちに逝去したとする説が多いそうです。
終焉の地が諸説ある中、岩手県宮古市鈴久名にある鈴ヶ神社は、静御前を祀る神社として最北端だそうです。
源義経が平泉を抜け出して、北海道に渡ったという義経北行紀の経路箇所にあたり、静はここで義経の2人目の子を出産しようとするが、難産のすえ、母子ともに亡くなったそうです。
地区の人たちは、静御前を尊び、その後は神様として祀ったのが鈴ヶ神社である。鈴久名の地名は静の訛りから変化してできた地名ともいわれ、義経伝説や金売り吉次などの伝説も数多く残るそうです。
神社のふもとには静御前供養塔が建てられているが、これは近年になってから建てたもので、静御前と生まれるはずであった子供のお骨は、金売り吉次が密かに京都の実家に持っていったと言われています。
かつて埼玉県久喜市栗橋区域にあった高柳寺(現・茨城県古河市の光了寺)には巌松院殿義静妙源大姉という静御前の戒名がある。その過去帳には文治5年(1189年)9月15日に他界した、とあるそうです。
埼玉県久喜市栗橋区域の伝説によると、源義経を追ってきた静御前は1189年(文治5年)5月、現在の茨城県古河市下辺見(しもへいみ)で義経の死を知り、当時栗橋町にあった高柳寺(現光了寺。古河市中田)で出家したものの、慣れぬ旅の疲れから病になり同年9月15日に亡くなったとされています。
栗橋駅東口には静御前の墓と義経の招魂碑、さらには生後すぐに源頼朝によって殺された男児の供養塔がある。毎年9月15日には「静御前墓前祭」と称する追善供養が行われる。また10月第3土曜の「静御前まつり」では市民が義経・静御前・白拍子などに扮してパレードが行われるそうです。
奈良県大和高田市の磯野は磯野禅尼の里で、静御前も母の里に戻って生涯を終えたとする伝説が伝えられています。
兵庫県淡路市志筑(しづき)はかつて「しずの里」と呼ばれ、静御前の墓があるそうです。
新潟県長岡市栃尾地域(栃堀)にも、静御前のものと伝えられる墓が存在するそうです。2005年のNHK大河ドラマ『義経』では、番組中の「義経紀行」において、この墓が紹介されているそうです。
福島県郡山市には、義経の訃報を聞いた静御前が身を投げたと言われる美女池や、その供養のために建立された静御前堂があり、静御前堂前の大通りは静御前通りと名づけられている。2005年には静御前堂奉賛会により鶴岡八幡宮の東の鳥居付近に「静桜」が植樹されました。
長野県大町市美麻大塩には、静御前が奥州と大塩を間違えてたどり着き、そこで亡くなりその時、地面に刺さった杖から芽吹いたという、イヌザクラの巨木「静の桜」がある。別名「千年桜」ともいわれており、山中深く美麻の丘に一本佇む姿は「神聖な桜」とも伝えられ、修行僧が静御前の魂を供養し、千年桜より癒されたといわれている。また、薬師寺には勧融院静図妙大師という静御前の戒名を記した墓と、磯禅尼の供養碑もあるそうです。
福岡県福津市にも墓がある。伝承によると、落ち延びた静御前は、豊後国・臼杵を経て宗像氏能の計らいで、勝浦村・勝田の地に移住し、実子の臼杵太郎を産んで、息子が大分県の大友氏に仕い、静御前は義経を探しに京都に上洛したそうです。
また茨城県古河市下辺見には、静御前が行き先を思案したとされる思案橋という橋があります。
香川県東かがわ市には次のような言い伝えがあるそうです。
愛児を殺され、生きる望みを失った静は自殺を考えたが、母磯野を伴っていたため、それもかなわなかったそうです。
文治3年8月、母の故郷である讃岐国入野郷小磯(現・東かがわ市小磯)へ母と共に帰り、文治4年3月、讃岐国井閇郷高木(現・香川県木田郡三木町井戸高木)にある長尾寺において宥意和尚から得度を受けました。
剃髪後、母は磯野尼、静は宥心尼とそれぞれ名を改め、薬師庵において信仰の日々を送るようになったそうです。
後年、母磯野尼は長尾寺への参詣の帰り、井戸川の畔で寒さと老衰のため倒れ、69歳で亡くなり、まもなく静も母の後を追うように建久3年3月、義経に逢うことなく24歳の短い生涯を閉じたそうです。
長尾寺には静親子が剃髪したときに使用したとされる剃刀を埋めた剃髪塚、井戸川橋のある県道沿いには母磯野尼の墓、昭和地区には静が俗世への想いを断ち切るために、吉野山で義経から形見としてもらった紫檀の鼓(初音)を井戸川橋に棄てたとされる「鼓ヶ淵」がある。その他、小磯には静屋敷が、三木町中代には静庵・静の本墓・位牌・下女琴柱の墓があり、同町下高岡の願勝寺にも静の墓とされるものがあるそうです。
静御前を主題とした作品
古典
舟弁慶:義経と静の別れを扱った能。のちに歌舞伎化もされる。
賤の小田巻(賤の苧環):頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた場面を表した日本舞踊。
映画
静御前(1938年 演:山田五十鈴)
新・平家物語 静と義経(1956年 監督:島耕二 演:淡島千景)
歌謡曲
長編歌謡浪曲 舞姫 静御前(三波春夫)
書籍/漫画
天よりも星よりも:主人公が静御前の生まれ変わりであったために悲劇的な最期を遂げる。
ゲーム
SAMURAI SPIRITS:プレイヤーと対戦するUPC専用キャラクターとして登場。義経の影を求めて亡霊と化すが、プレイヤーの手によって昇華される。
登場作品
『まんが日本史』(1983年、日本テレビ、声:鈴木富子)
『ねこねこ日本史』(そにしけんじ、実業之日本社)
Eテレテレビアニメ版第75話の主役静御前の声:小野寺瑠奈。
『義経 (NHK大河ドラマ)』(2005年、NHK、静:石原さとみ)
『SAMURAI SPIRITS』(2019年、SNK、声:上田純子)彼女をモデルとしたラスボスとして登場しており、彼女が作った歌も登場している。
めぐめぐがすごいと思う静御前のこと
1悲劇の女性として世に伝わり、現代まで多くのメディアで作品として日本中の人に知られていること。
2そして様々な伝説が日本中に伝わり、多くの人々に今も愛され信仰されていること
3当時から母と生きる娘、夫を守り続けた態度が理想の女性として賞賛され、その生き方は現在を生きる女性にも繋がる生き方であったこと。
静御前の伝説を巡る旅をしたら多くの日本の土地を回れるので、きっと面白いたびになるんだろうなと考えてしまいました。