不自由な中で見つけた、私の自由

自由と聞いたとき、私には同時に不自由が思い浮かぶ。
車椅子で生活している私にとって、なにも気にすることなく、本当に自由に選べることはめったにない。私の自由にはいつだって条件が付いている。車椅子でも不自由なくアクセスができる立地だとか、建物のつくり、介助者がいなくても問題ないかどうかなどなど。そういう類のことを気にするのは私にとってはもはや日常で、そういう確認を取ることも当たり前だ。
時々面倒になって、どうしてただご飯が食べたいだけなのにこんなに苦労するんだ、と落ち込むこともあるし、健常者に生まれたかったと思うことも度々ある。そんなこと考えたことがない、という当事者に出会うと心底羨ましくなる。私はそんな風には考えられなかったし、たぶんこれからも考えられない。
元気な時は社会に溶け込んでいる、と思い込むこともある。そしてふとしたきっかけで社会との差を痛感して落ち込む。最近やっと、こういう感情が周期性なのではないか、ということに気付いた。それなら面倒だけど時々お菓子でも食べながらやり過ごすしかない。
きっとこの悶々とした感情は一生付き合っていくものなのだろう。

けれどもそんな私が今、自由になったと感じている。一人暮らしを始めたからだ。
不動産屋さんや住宅改修の会社、引っ越し先の自治体との連絡調整。車椅子での引っ越しはやることが多くて、楽しみなはずの引っ越しに引っ越す前から疲れてしまったけれど、なんとか無事に引っ越しを終えた。今は毎日ヘルパーさんに入ってもらいながら生活している。

車椅子の作り替えが間に合わず、台所に入れないから、まだ全然一人で出来ないことも多い。それでも「自分の家だ」と胸を張ることのできる場所ができたのはとても嬉しい。実家や施設と違って、朝起きて挨拶をされない、朝ご飯を聞かれない、何時に帰るか連絡する必要もなく、ただ帰る場所だけがあって、そこにいてもいなくてもいい。そんな単純で当たり前のことがとても嬉しい。時間が経つと一人であるが故の寂しさや面倒くささが出てくるかもしれないけれど、そんなの今は知らないふりをしていたい。

私は人と話すのが好きだ、と思っていた。けれど、それは少し違うのかもしれない、と一人暮らしを始めた数日で考えていた。私が喋ることが好きなのは、自分が好きな人や興味のある人と共通の話題について喋っているときで、同じ空間にいるだけで発生する他人の状況を把握するために行われる会話は特に好きではない、ということに気が付いた。
25年生きてきて、気付くのが遅すぎるけれど、でもそれは仕方のないことなのかもしれなかった。なぜなら私はそれまで自立の練習をするための施設で人に囲まれて生活していたからだ。
施設に入るまでは実家で家族と生活していた。家の中では車椅子を降りて生活していた私が本当に一人で家の中でできたことといえば、着替え、トイレ、お風呂のような最低限のもので、事前に出来あいのパンなど、買ってそのまま食べられるものを準備しなければ、お弁当を温めて食べることすらできなかった。施設に入って、電子レンジを使っての自炊や洗濯ができるようになった。初めて百円ショップのレンジでパスタを茹でる容器を使い、無印良品のパスタソースを選んでパスタを食べた時の感動は忘れられない。ほかの人にとってみたらとても小さなことだと思うけれど、自分で夕食のメニューを決めてソースを選び、作って食べるのができることがとても嬉しかった。

けれどもその施設は、フロアの中からは自分で鍵を開けられない仕様になっていたため、スタッフの鍵がなければ外出も出来ない。実家にいた時と比べれば色々できるようになったけれど、やっぱり人との会話に縛られていると感じていたし、そもそも、施設は施設であって自分のプライベートな空間ではないという感覚になっていたため、ずっと人間としてのスイッチが切れなかった。

今暮らしている家でも助けは必要になるから、毎日2時間ずつヘルパーさんを頼んでいる。だけど、ヘルパーさんは基本的に私の意志で動く存在であり、そこに他者のこうしてほしい、という意思は存在しない。時間の制限こそあるけれど、そこに存在するのは私が望んだ結果だけである。実家や施設にいるときのように、ここはこうしたいけどできないとか、今日は母の機嫌が悪いとか、そもそも自分の場所ではないとか、他人に遠慮する感情を感じなくなるだけでこんなに楽なのか、と思った。その代わりに、自分で家事のやり方を決めてヘルパーさんに指示し、自分の思った通りに実行することに、難しさや大変さを感じている。それでも、今の生活の方が私は好きだし、充実感を感じている。

生活の変化によって、自分の気持ちにも変化が現れた。予定のない休みの日は疲れ切ってずっと寝ていたのが、朝起きて着替えられるようになったり、買い物の時に気になる飲み物があれば試しに買ってみたり、服を買いたくなったり、化粧をしたくなったり。コロナ禍で外出が難しいことがとても悔しい。
きっと自分で気づく変化以外にも変化は起きているのだろうし、これからも変化していくんだろうな、と考える。その変化を楽しみにしているし、これから先環境の変化があっても楽しめる余裕を持っていたい。
これから、私の住むこの部屋で、色々なことをやりたい。自炊、お菓子やパンを作る、読書、録画の番組を見ること。文章を書く時間も、オンラインイベントに割く時間も作りやすくなった。
どんな毎日を作ろうか。
最近はそんなことを考えて自由を満喫している。

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