高校の夏スカートを着続けられなかった私との決別

いたずら心と聞いたとき、私が一番持ち合わせていないものだと思った。

自分で言うのもおかしいが、私は真面目だ。

決められたルールからはみ出るとそわそわするし、これくらいいいや、という考え方があまりできない。

だから、高校時代、校則に違反して先生に怒られてまで髪を染めたり、地味な冬服とは異なるチェック柄の夏服のスカートを、指定期間外の冬もはいてみたりすることを、私はしなかった。

夏服のスカートは好きだったから、冬も履きたいな、と思ったことがないわけではなかったし、髪を染めることに興味がなかったわけではないけれど、私は両方やらなかった。

ルールからはみ出るとそわそわすると書いたけれど、私はめんどくさいと思っていた。

校則を破って先生に怒られることが、なによりもめんどくさかった。授業をさぼったり寝ている友達がいたりしたけれど、そういうことをする人たちにいつも疑問を持っていた。

“黙って言うことを聞いていれば3年なんてすぐ終わるのに、なんでわざわざ校則を破って先生に怒られに行っているのだろう。わけがわからない。”

あっという間に高校を卒業して6年がたった。もうあの高校生活は戻ってこないのだ、と思うと、もったいないことをしたな、と思う。校則破っても別に何もないんだから、やっとくべきだった。大人になったらそんなことできないとは知らなかった。誰かそう言ってくれれば良かったのに。

高校生は(というか学生は)人に大きな迷惑をかけないかぎり、基本的に何をやっても許される生き物だ、と私は思っている。多少髪を染めようが授業をさぼろうが、やりすぎでない限りたぶんその後の人生にさほど影響のない貴重な時期である。もしかしたら勉強をすればよかった、と大人になってから思うかもしれないけれど、それはたぶん、学生時代に勉強をしていても思うから気にしなくていいと思う。

そういう時期に私はいかに真面目に生きるか、しか考えていなかった。それは確かに大切なことではあったと思う。

当時の私は、友達とおしゃべりをしすぎて怒られるとか、授業がなんとなく嫌でサボるとか、校則を破るとかそういうことをしている人たちを心のどこかで見下していたけれど、私よりも大切なことを、大人になった彼らは今知っているのかもしれなかった。

こんなことを思うようになったのはいつからだろう、と思ってみても思い出せない。

ただ、ある時電車に乗りながらふと、ああ、もっと色々なことを学生時代に体感しておくんだったな、と思ったのだ。あの時期にあんな馬鹿みたいに真面目にやらなくたって、誰も怒らなかったんだよ、と高校生の私に言ってあげたい。

例えば社会人になって、学生と同じ感覚で仕事をさぼったり規則を破ったりすれば、学生時代のように怒られるだけではなく、処分を受けたり、最悪は職を失う可能性だってある。学生はお金を払って学ぶけれど、社会人になるとお金を貰って働くのだ。その分だけ責任は重くなる。学生も態度があまりに酷かったりすれば退学になるだろうけれど、そんなことはそうそうないのでは、と思う。成績は多少下がるかもしれないけれど、一旦就職してしまえば成績なんて大した意味はない。

一見無意味そうに見えることが実は意味のあるものだった、というのはよく聞く話で、よく聞く話だからこそ、見落としてしまいがちなのだ。

私は大人になった今も、高校生の時のような考え方が抜けなかったり、やりたくてもなにかと理由をつけて尻込みしてしまう。

そういう自分に少し嫌気が差していた。

嫌気が差している時に来たのがコロナである。これを書いている今は8月。通常の生活に戻り始めたとはいえ、私の生きがいと言っても過言ではない音楽ライブはまだ復活の目処は立たないし、7月に予定していた遠距離恋愛中の彼氏とのデートだって、また感染者が増えてしまったので延期せざるを得なくなった。もう今年中に会えるかどうかも怪しい。

これ以外にも、コロナウィルスによって変わってしまった日常が山のようにある。

そして、変わってしまった日常はおそらくもう戻ってこない。戻ってきたとしてもそれは1年~2年くらい先のことではないだろうか。

変わってしまった日常を思うととても寂しくなったり悲しくなったりするから、あまり思い出さないようにしているけれど、時々後悔することがある。

コロナ前の日常で見た景色、一緒にいた人の表情、行った先で感じたもの。そういうものをもっと形として残しておくべきだった、と。何しろ、思い出を見返せるものが何もないのだ。

今までは覚えていればいいと思っていたけれど、記憶はどうしても薄れていく。でも、確かに覚えていたいこと、忘れたくないことが私にもあるのだ、と自粛期間中に気付いた。

形として残す手段のひとつの例が写真である。

コロナ前の私は、あまり写真を撮る方ではなかった。

撮ったところでSNSに上げるわけでもないし、見返すことだって滅多にない。

そもそも普段電動車椅子を使って生活し、手足に麻痺を持っている私は、写真を撮るという行為自体が少し難しいことがある。立ち止まっている時に撮る分にはさほど問題はないのだけど、車椅子で進んでいる時に撮ろうとすると、まず立ち止まるときに人にぶつからないかどうか確認、スマホやカメラをカバンから出して両手で持って撮影する。終わるとそれをしまって、人にぶつからないように注意しながらまた歩き出さなければならない。仮に出し入れを省略するためにスマホやカメラを首にかけて行動していても、それを固定するには利き手である右手を使わなければとてもじゃないけど写真は撮れない。が、利き手はいつも、車椅子を操作するレバーを握っている。

まして人混みならば普通に歩くだけで精一杯、立ち止まって写真を撮ることなんて二の次でめんどくささすら感じていた。実際、一緒に音楽フェスに行った彼氏が写真を撮りたいと言っていても「混んでいるから後にしようよ」と言って、落ち込ませてしまったこともある。

でも実際は、めんどくさいと言いながら、興味のないふりを押し通そうとしていたのだと思う。本当は撮りたいと思いながら通り過ぎたことだってあったくせに。何年か前には綺麗な景色を撮りたいと思ってミラーレス一眼を買ったくせに。

高校生の時からずっとそうなのだ。私は、私だって夏服を着ていたいのにと心の中でごねていた時と何ひとつ変わっていないのだ。

着たいなら怒られるのを気にせず着ればよかったし、写真を撮ることだってやればいいのに、なんだかんだ理由をつけてやらないだけじゃないか。「一見無意味そうに見えることが実は意味のあるものだった、というのはよく聞く話で、よく聞く話だからこそ、見落としてしまいがちなのだ。」とか偉そうに書いてるくせに、なんだよ、私。

気付いたからには直さなければならない。夏服を着続けられなかった私と何としても決別しなければ。学生時代を「こうすれば良かった」と後悔で思い出すのではなくて、その気持ちを原動力として、今を塗り替えて行けたらきっと楽しくなる。写真を撮ることはなにも学生にだけ許された特権ではないはずだ。

今は自粛ムードでどこかに出かけるというのはなかなか難しいし、自由に外出できるようになるのがいつか分からないけれど、外出ができるようになった時には、カメラを首にかけて、たくさんの思い出を残しに行こう、と心に決めている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?