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目が醒めるような毎日

「醒」

今年を漢字一文字であらわそうと考えたとき、真っ先に浮かんだのが「醒」だった。

2018年は、文字通り、目が醒めていくような1年だった。

年明け早々に「当事者とはなにか」の議論に心が揺らいだ。

わたしは、起きた出来事の大きさと、痛みの大きさは比例しないと考えている。

そもそも痛みはその人だけのもので、ほかの人が測ることはできない

その前提に立ちつつも、「当事者」という記号が、自分を支えてしまっていたこと、同時に無意識の縛りになっていることに気づいた。


なにかの当事者であることは、アイデンティティのひとつにすぎない。

たとえば、父や母であること、会社員であること、過去に特定のつらい経験をしていること。

それらは、その人のたった一面でしかない。本来、人はいろいろな側面をもっている。

そう思い、ひとつのアイデンティティに縛られるのは、やめよう。当事者を降りよう、と決めた。

同時に、人に何かの役割を背負わせるのはやめよう、と考えるようになった。


夏以降はうっすらとした葛藤の中にいたように思う。

違和感にとらわれた一方で、その違和感を形にすることはできなかった。

その結果、冬が近づくにつれて、小さな違和感がひずみとなってしまったように思う。

ああ、自分に嘘をつき続けたからだ。

そんなふうに解釈して、目が醒めた気になっていた。


でも、実際は醒めきっていなかった。年の瀬になって、そんなことに気づかされた。

わたしはずっと自分の中の美意識を大切にしていた。

その中のひとつが、よいと思えるものだけを、よいと言うことだった。

それが、いつの間にか、美意識から潔癖へと変わってしまっていた


世の中の大抵のものは、完璧によいと思えるものじゃなくて、「よくなる可能性を秘めたもの」がほとんどだと思う。

それをよいと思えるようになるには、時間が必要だ。人が変わっていくように、物事も変わっていくのだ。

わたしに足りないのは、時間軸だった。

いつも物事を短期的、いや、刹那的に見ていた。


今その瞬間で矛盾があったとしても、長い時間をかければ、なにか変わるかもしれない。

それなのに、いつも、今その瞬間だけを切り取って、判断してしまっていた

そう気づいたとき、完全に目が醒めた。

せっかく目が醒めた1年を過ごしたので、来年はその目を養う1年にしようと思う。

願わくば、いろいろな時間軸で物事を見られるように。

noteを更新する社内部活動、今年最後のテーマは「今年の漢字」でした。目が醒めた、というとおり、本当に気づきの多いよい1年だったな、と思います。どうかよいお年を。

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