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魔法使いの弟子ミッキーの生みの親|レス・クラークの軌跡

ディズニーアニメーターのナイン・オールド・メンのレス・クラークが担当したキャラクターとシーンを紹介します。

・短編シリー・シンフォニーの「骸骨の踊り」の骸骨が骨の多い仲間の助骨を木琴のように演奏するシーン

・短編ミッキー・マウスの「ミッキーの大演奏会」のミッキーマウス

・短編ミッキー・マウスの「ミッキーのグランドオペラ」のクララ・クラック

・短編シリー・シンフォニー・シリーズ「春の女神」の女神

・長編「白雪姫」の白雪姫が小屋で小人達と踊るシーン

・長編「ファンタジア」の「くるみ割り人形組曲」の妖精と「魔法使いの弟子」のミッキー


「くるみ割り人形組曲」の妖精


「魔法使いの弟子」のミッキー

・長編「三人の騎士」のブラジル編のバイーア行きの汽車

・長編「南部の歌」のリーマスおじさんと動物達が「Zip-a Dee-Doo-Dah」歌うオープニングのシーン

・長編「ファン・アンド・ファンシー・フリー」のボンゴの女の子のルルベル

・長編「メロディ・タイム」の「クマンバチ・ブキ」の蜂


・長編「わんわん物語」の子犬のレディがキッチンで夜通し遠吠えするシーン


レス・クラークは作中の音楽に合わせてキャラクターを踊らせたり、歌わせたり、アクションさせたりするシーンを描いていました。
ウォルトが理想とするファンタジーで優しい世界を理解して表現していたアニメーターでした。

レスは1928年の「ザ・バーン・ダンス」から 1968年のテレビ番組「ミッキーマウスアニバーサリーショー」に至るまで、40 年にわたるスクリーンでの長いキャリアの中でミッキーのアニメーションを担当しています。

初代ミッキーマウスのアニメーターだったアブ・アイワークスは、1930年1月ウォルトとの仕事の意見のすれ違いにより、ウォルト・ディズニーを辞職してしまいました。

代わりにアブのアシスタントアニメーターだったレスが数多くのミッキー・マウスの原画を担当することになったのです。
彼が描いた「ミッキーの大演奏会」と「魔法使いの弟子」のミッキーマウスは普段は褒めないウォルトが名指しで褒めたそうです。


「ミッキーの大演奏会」のミッキー


「魔法使いの弟子」ミッキー

以降はレス・クラークのディズニーアニメーターになる前と、アニメーター以外での活躍をまとめました。


ディズニーアニメーターになるまで

バイト先でのウォルトとの出会い

1925年の夏、レスリー・ジェームズ・クラークは当時のキングスウェル通りの小さな店舗のスタジオの向かいにあるお菓子屋でアルバイトをしていました。
当時ウォルトと兄のロイはよくレスリーのバイト先でランチを食べていて、ある日レスリーが書いた鏡のメニューの文字をウォルトが褒めたそうです。
12兄弟の長男である彼は成熟していて大人でした。

最初は医療職希望だった

彼の父親は大工でしたが屋根から転落してしまい働けなくなってしまったので、代わりに長男のレスが家族の中の一番の稼ぎ頭となっていました。
クラーク家は大家族で貧しかったため、レスは高校に通うのを一旦中断し一学期飛ばして働いたこともありました。
医療職に就くことを真剣に考えていて、父親と貧困な家族のために南カリフォルニア大学の入学試験で優秀な成績も収めていました。

捨てきれないアニメーションへの想い

しかしレスは漫画やアニメーションが大好きでした。
ベニス高校を卒業する前の1927年、レスは思い切ってハイピリオンスタジオにイラストサンプルを提出しました。
ウォルトはレスの迅速かつ巧みなグラフィックラインを賞賛し彼を雇いましたが、ウォルトは「一時的な雇用になるかもしれない」と彼に警告するのです。
レスはディズニーとの契約が長期的になるとアニメビジネスの知識を基礎から学びます。
スタジオに入って最初の一年は業界で最も低い初心者レベルの立ち位置にいても喜んで学習しました。
シュイナード美術学院の授業も彼はできる限り多くの授業に参加し、1930年までには本格的にアニメーターとなったのです。


アニメーター以外の活躍

「眠れる森の美女」のシーケンスディレクターに

アニメーター以外では長編「眠れる森の美女」のシーケンスディレクターを勤めました。
1950年代半ばから20年間に渡り数多くの情報短編作品やミッキーマウスクラブのテレビ番組の挿入作品を監督していました。



■引用元

■参考文献
・Walt Disney's Nine Old Men and the Art of Animation p.9 - p.28


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