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Share: かすかな「ふるえ」に、そわせてゆくこと。

こんにちは、お一人お一人との
個別healing theraphyご一緒くださり
ありがとうございました。

とても丁寧に 
「内観」の道具へと
使ってくださった方もいらして・・・
こちらこそ、感謝です。

内観、とても勇気のあることです、どなたかに
心をオープンにすることは、なおさら。

だからこそ、わたしも
自分の見聞きすること(知覚)を
訂正し続けます。

心の力を示してくださる、神の子の
光に支えられながら。


Spiritualな感覚・・・とは
生命の根源に
触れてあることのように
感じます。

ですので、
文字をみているようで
文字の奥を観てくださった I さんに
わたしこそ、頭が下がりました。

許可をいただいて、匿名にて
シェアさせていただきます。


罪悪感が土台となる、この世界においては、
「これだけやれば、あれだけになる」という
取引の「枠組み」の中で、さらに罪悪感を増やしています。

また、どこか、怒りがあるとしたら、
「わたしが怒ることで、あなたの罪悪感を増やしたい」
ということの表れである、ともCourseでは言われています。

罪悪感から抜け出したいのに、
怒ることで、わたしも、あなたも、どちらにも
「罪がある」ところに
留めようとするのです。

愛は、自由に
もっと、もっと、広がりたいのです。

罪悪感を
一掃して。

だからこそ
「こうすれば、ああなる」という
わずかでも、自我の枠の中で
コントロールし、押し込もうとすると、
葛藤が起きるので、
「外側の教師」に 
飛び付かずに
「今、受け取れるものを教えてください」と
罪悪感を消し去ってくださる、
内なる教師に
頼み続けます。

私たちは、
自我の「こうすれば、ああなる」から
抜け出し続けたいのです。

愛のかすかな 
ふるえ、ゆるみ、ゆらぎに
「自分」という愛の道具を
そわせたいのです。

Iさんの教えてくださったことは、わたしもまた、
ほっとするものを
何度でも、透明なもので
手渡されているのを感じました。



本当の原因と結果を、
Iさんは感じていらっしゃるからこそ
「これまでの自分の見方とは、
別の視座を見せて欲しい」と
わたしにも手を
差し伸べてくださっていました。

いつも、どこででも
誰に対しても
Iさんは
透明なお花を、
差し出してきたように感じました。


例えば、

一緒に遊ぼう、と
共にいてくれる、お友達に。

時に、頼りにされたり、褒めてくれる、
担任の先生に。

学校にある、空間や、植物に。

言語を話さない、動物や
キラリと光るものを
感じている、通りすがりの方々に。

「与えている」Iさんしか
いない、と透明さは
わたしに語りかけます。

そこを、
見逃さないように、と
わたしにもIさんのSpiritは
促してくださっています。


わたし(という自我)は
本来のわたし(という愛)を
追い出そうとします。

自分を
消されるのが、怖いから。

愛は、必要ない、
得にもならない(むしろ損してる)と
判断できると
自我は思い込もうとするのですが

真に 判断できるのは
「自我」を超えています。

愛にとっては、
「ここにある本来のものを
観てほしい」という
愛を求める声を 
聴き逃すことがないのです。


全ての 声の中に
神の声、愛の声が
あるからです。

「そこに隠されていた愛」が
透明な花の光と香りに
包まれて
「ここに、あなたの手にしたかったものがあるよ」

感じさせてくださるのです。


原因は、愛。

結果も、愛。


メッセージを通して
光を
与えてくださり
ありがとうございます。




『内なる光、マスター、Holy Spirit
あなたからの呼びかけを
感じられる いまを、
ありがとうございます。

わたしの作り出した手段、
「こうすれば、ああなる」
「過去の知識、学び、方法」
「アドバイス」
そういった個の自分を守るために
言葉に飛びつき、
外に「正解」を
探しにゆく代わりに

目の前の方のSpiritに
愛の声、奇跡の光景を
見せてくれるよう
助けてください、と
わたしが、心から、頼めますように。

この世界を通り過ぎて
本来あるものを、
わたしが
受け取れますように。

目の前の方という、
一なる光、
あなたの光の中に
とどまれますように。』


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