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「眠いとき」「疲れているとき」のあてにならなさ

「眠いとき」「疲れているとき」の自分は、ほんとうにあてにならない。

このまえ、すごく眠い日があって、作業中にさほど食べたくもないお菓子も惰性でどんどん食べちゃうしコーヒーも1日5杯くらい飲んじゃうし、しかもさほど眠さをまぎらわせることにもつながらないし「ああ、こういう日はなにをやってもだめだわ……」と思った。

でもその日の夕飯に作った、椎茸とピーマンと鶏挽肉の炒めものがとてもおいしくできて、やっぱり椎茸はうまみ成分の力が強くて良い食材だなあ……とか思ったりしたので、必ずしも「なにをやってもだめ」とは言い切れないかな……?(なんのはなし??しかも食べ物のはなしばっかりだし。笑)

まあとにかくいままでを振り返って、冷静なときなら決してしないであろう判断ミスをしてしまったり、自暴自棄になってしまったりしたのは、いつも眠いときか疲れているときだったように思うわけです。

しかも厄介なことに、わたしは眠かったり疲れてたりすると、いろんなことをお金で解決したくなる。

たぶんわたしの中には「お金払えばなんとかなるでしょ」星人が確実に住んでいる。

「お金払えばなんとかなるでしょ」星人、ふだんは身を潜めているんだけれど、余裕がないときに、しれっと何食わぬ顔で出現する。だから眠いときと疲れてるときにショッピングサイトなどは見ないほうがいい。いや、見てもいいんだけれど購入ボタンは押しちゃだめなんです。買い物にも極力いかないほうがいい。

なんていうか「お金を払ったから、だからなんだっていうのさ」ってな話でして。「払ったお金の額」と「得られる充実度」は必ずしも比例しないのだから。いやもちろん、お金で買えるものは買ったらいいんだけど、どうしてもお金では買えないものはたくさんあるので。その「お金で買えないもの」が自分にとってなんなのかを、きちんと見極める必要がある。で、眠いときや疲れているときにはその判断が冷静にできないことが多いのです。

眠いときに考えることは、全部あてにならない(大事なことなので何回も言う)。

話は逸れるけど、わたしはけっこう長い間「目標をたてる」というのが苦手だった。「目標」という言葉を聞くだけで、うっわああああやめてえええええ!という拒否反応が出るくらいプレッシャーだった時期というのもあった。

だけど最近ようやく「あれ、目標って、もうちょっと気軽に設定してもよくない?」と思えるようになってきた。

「目標をたてる」というのも、「眠いとき」「疲れているとき」にはできるだけやらないほうがいいと思っている。なんでかというと、ピントのずれた目標をたてちゃうから。まあ立てちゃってもいいのだけれど、後日余裕があるときに「なんでこの目標立てたんだっけ?」と冷静になる時間は必要だ。

そもそも「目標設定」が苦手だったのは、その目標が叶わなかったときの絶望感がイヤだったから。もしくは「なにかができた」「目標を達成した」ことによって、人に対して胸を張れる自分でいたかっただけだったり、がんばったよ、すごいでしょ、ってどこかのだれかに言いたい気持ちが強かったのかもしれない。

でも結局、自分が納得してなかったら意味がないわけで。他人に対して胸など張れなくてもなんでも、淡々と積み重ねることで自分に対して胸が張れるならそれにこしたことはないですね。

自分にとっての人生の目標というか「なんとなくこういうふうにしていきたいな」というイメージから、大きく逸れないようにしたいなとは思う。思うんだけれども、それもあくまでふわっと思い描くだけ。あまり力みすぎないのもポイントだ。

遠くに目指す目的地があったとして、その道中にちいさい目標というか、自分を喜ばせる小さい目標というのがあったらいい。むしろ、それがないと走り続けられない。そういうのを、いわゆるスモールステップって呼ぶのかな。わたしに足りなかったのは「スモールステップ」なのかもしれなくて。

幸せっていうのはな、死ぬまで走り続けることなんだぞ。

というせりふが、吉本ばななさんの「うたかた」という小説にでてくるんだけれど、ここで言う「走り続ける」というのは、なにかに全力で挑戦し続けるとかの過激な意味じゃなくて、なんかこう「幸せであろうとすることを、いついかなるときも決してやめないこと」のようにわたしは捉えている。

「幸せであろうとする姿勢」を、確固たるスタンスとして設定しておきたい。


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