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「せつなさ」とはなにか

「せつなさ」は一種のセラピーのようなものだと思う。

「せつなさ」が大好物だった頃がある。10代~20代のころ、小説や映画や漫画などの作品のなかに「せつない」要素を見つけるたびに、ああ、せつなーい! などと言って大喜びしていた。

現状のうまくいかなさを持て余していたわたしにとって、「せつなさ」に頼るくらいしか自分のありかたを肯定する方法が見つからなかった、とも言える。

せつなさ、というのはそもそもなにか、というと

「なにかが足りない」
「あってほしいものが手に入らない」
「こうであってほしいのに現状はそうじゃない」

といった状況から発生しうる、悲しさ苦しさ恋しさ、身動きのとれなさどうしようもなさを肯定的に味わいつくす、といったものだと思っている。

現実がままならなくて苦しいとき、「せつなさ」を謳歌するコンテンツは実に心の助けになる。

「こうだったらいいのにな(実際はそうじゃないけど)」とか「あのとき、こうしてたらよかったのかなあ……?」といった、いわば英語で言う仮定法。「なにかが欠けている状況」を「せつなさ」はまるごと受け止めて肯定して癒してくれる。

だがしかし。「せつなさ」は出口がない洞窟のようなものでもある。ああせつないせつない、とか言いつつせつなさの洞窟をずんずん奥に進んでいくと、ああ、ここがせつなさの行き止まりか、というところまで来てしまうことがある。

行き止まりまで来てしまうと、やがて飽きる。そこには自分を急かしたり脅かしたりするものはなにもなく平和である代わりに、とくに新しい概念が入ってくることもなければ、新しい発見が得られることもないからだ。

そのへんまでくると、観念してそろそろ引き返して外に出てみましょうか。といった気持ちに自然となることができる。

せつなさはセラピーであり安全基地だ。「せつなさ」をきちんとごまかさずに味わい尽くすことで、せつなさは外からもたらされるものではなく、自分のなかに内包される。安全基地として心の中に取り込まれる。

「欠けていたりうまくいかなかったりしても大丈夫。ちゃんと受け止めてあげますよ、安心してね」とほかでもない自分自身に対して思うことができたら最高だ。そう思えたとき、外の世界にはじめて出ていけるのだと思っている。


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