他人が気になりすぎるとき

他人が気になりすぎるとき、人は自分が見えていない。
自分で自分の存在を「認める」ことができれば他者の思惑に振り回されることは無い。

以前の私は私を知っているようで「わかって」いなかった。
認めていなかった。
私が私を認めて、愛することを誰に憚ることがあるだろうか。
誰かがそれを責めるようなら、それはその人の問題。
自分で自分を認めることができない人の嫉妬という問題。
逆に自分が誰かを「正そう」としているなら、それも自分の価値観に人を嵌めようとする「自分の問題」

他人を変えることはできない。
他人が自分に理不尽に関わってくるとき、その人が自分で解決すべき問題がある。
その人の中で「気づき」がなければ変わることはできない。

でも自分を変えることはできる。
自分の「課題」と向き合えば自分は変われる。
他人の問題を考えてあげる必要はない。
そんな時間もない。
私は私に与えられた身体の時間を生きなければ。

自分が変われば他人にも気づきを与えることは出来るかもしれない。
でも「そのため」に変わるのではない。
順番が逆なのだ。
私が私のために「課題」をクリアする、結果、他人に気づきを与えられるかもしれない、という順番。

気づかないかもしれない。
でもそれも、「その人の問題」
「私」は変わった。
だからそこに執着しない。

本当の意味で他者を愛せているだろうか。

この人に愛されたい。
この人に認められたい。
この人に必要とされたい。

その中に、「そうでない自分に価値がない」という根っこが隠れていないだろうか。

あなたはあなたのままで尊い。
だから他人に執着しなくてもいい。

執着して苦しいとき、執着されて苦しいとき、他人の問題ではなく、自分の課題と向き合って自分を認めて愛そう。

愛は誰かに与えられなくても、
もうすでにあなたの内から無限に湧いている。
ないと思うなら、湧き出すところが固まっていないだろうか。

内なる愛が溢れると、他人への不満は少なくなる。
求めなくても、そこにあるから。

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