②赤いマニキュアとワイン
あのさ、どこに住んでるの?
テーブルから女の組んだ足が生々しくはみ出すのを見て、目を逸らすように話題を変えた。
『初対面の男に家を教える女がいるのかな?じゃあさ、あなたの口座番号教えてくれる?』
女はフフッと笑った。
面倒だな。いや、そうじゃなくて真面目なのかもしれない。俺はワインが効いてのぼせた頭を回転させようと必死だった。
『あなたが選んだワインはこの店で一番高い銘柄だったじゃない?あれをオーダーするってことはそれだけ恋愛に真剣なのかなと思ったのよ。』と女は言った。
え?一番高いワインだったの?
俺は上ずった声を出してメニュー表を見ようとした。そうするとパウチされたメニュー表はツルリとテーブルから床に落ちた。
女は足元に落ちたメニュー表を取ることなく、ヒールの着いたサンダルを脱ぐと爪先でメニュー表をコツンコツンと叩いた。
赤いマニキュアの付いた爪先が艶めかしく、俺は童貞のようにテーブルに下でうろたえると女は大声で笑った。
『うそうそ。そんな高いワインじゃないよ。あなた動揺すると可愛いよね。』
そんな大声出すなよ。俺がケチみたいじゃないか。
『お金の話になると男って急にシビアになるよね。一番割り勘の多い場所はラブホテルって知ってた?男ってそういうとこが本当に分かりやすくて可愛いと思うの。』
そうかな?俺はラブホで割り勘なんかしたことないけど。
俺はなんで日曜の昼から若い娘とイタリアンレストランでラブホについて口論してるんだろうと気付いたとき、女は熱いカプチーノを葉巻のように太いシナモンスティックでかき混ぜている最中だった。
『ねえ、あなたはお仕事、何してる人?』
女はテーブルに両肘を突いて、気怠そうな顔で俺に質問した。
この女は俺に興味があるのだろうか?
ここで俺がマッキンゼーに勤めてるんだよと言えば今日のミスは全て帳消しになるのだろうか?そう考えた瞬間に女の薄笑いする顔が脳裏に浮かんで自分を偽るのをやめた。
仕事はデザインの仕事をしてるんだ。折り込みチラシとかあるだろ?ああいう紙媒体のデザインをマックで作ってるサラリーマン。
『へぇ。カッコいいね。デザイナーじゃない。』
そんな良いものでもないけどね。給料も安いし。
『働くことにコンプレックスがあるの?』
仕事にコンプレックスはないけど。でも大学の頃は将来の俺はもっと大手で働いてると思ってたなあ。
『自分はもっと誇れる仕事がしたかったってこと?』
そうだね。名刺を出せば女の子が食い付いてくれるような会社で働きたかったね。30歳を超えればもう無理だけどさ。
『そんなことないと思うよ。例えば公務員なんかは30歳過ぎても受験できるじゃない?』
俺が公務員になるの?想像できないなあ。
『想像できないんじゃなくて、想像もしたことないんじゃない?』
だって公務員なんて給料安くて、仕事は堅苦しくて楽しくないだろ?俺はデザインの仕事で生きていくつもりだから。
『自分が納得できない仕事して生きていくの?これからも?』
人生ってそういうものじゃないの?俺は今の職場に慣れてるし、定年まで細々とサラリーマンするよ。
俺は女にそう言うと、この話題を早く終わらせようと黒ビールを注文した。
ウエイトレスの女が口元に付いた自分の髪を気にしながらオーダーを取ろうとする素振りを見て、男と女が仲良くなるのは面倒くさいなと少し苛立った。
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