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3つの「早すぎた」で語るフス戦争【第一回】

こんにちは。
ここでは、私がこれまで研究してきた「フス戦争」についての以下の3つの視点からの考察を、今回から3回にわたって説明させていただこうと思います。


【第一回】早すぎた近代戦車と近代戦術

【第二回】早すぎた民主主義共産国家

【第三回】早すぎた宗教改革





第一回目は

【早すぎた近代戦車と近代戦術】についてです。

さて、フス戦争が起きたのは15世紀なのに、近代戦車とはどういうことでしょうか?

実は、フス戦争にも戦車が使用されていたのです。

フス戦争を語るのには外せないものですので、まずはここからお話しさせていただきます。

中世ヨーロッパのフス戦争と近代戦車・戦術を繋げるために、まずは「戦車」についての説明をしましょう。

そもそも、歴史には2種類の戦車が登場します。

ひとつは、古代エジプトや古代ローマなどで使用された「チャリオット」と呼ばれるもので、馬に牽引させる二輪車でした。
現代のセグウェイのような乗り方で、御者と弓兵の2人乗りがスタンダードな運用方法だったとのこと。
ですが時代とともに使用されなくなり、紀元前の段階でほぼ役割を終えていきました。

つぎに歴史に戦車と呼ばれるものが登場するのが、いわゆる「近代戦車」というものです。
なんと、チャリオットから2000年の時を経ての再登場となります。

今回の記事で取り上げるのは、この「近代戦車」とフス戦争の関係と、その戦車の運用方法の話題が中心となります。


では、近代戦車とはどういうものなのかを簡単に説明いたします。

近代戦車とは。『内燃機関(エンジンなどの動力源)と装甲板を持った車輌で、有人操縦で稼働し、火砲を搭載して、戦場への火砲の運搬と砲撃を同時にこなす戦術兵器』と、便宜上定義します。

近代戦車が歴史に登場するのは1916年、第一次世界大戦の頃です。
イギリスが開発した「マークI」と呼ばれるもので、菱形の履帯が特徴の平べったい形をした戦車でした。
塹壕を突破するための新兵器として開発されました。


しかし、後世の「戦車」としてのプロトタイプになったのは、そのマークIに対抗するためにドイツで開発されたシュツルムパンツァーワゲン「A7V」(戦時運輸省第7課突撃装甲車輌)のほうだったようです。

このA7Vは四面を厚い装甲板に覆われており、左右の側面には銃眼が穿ってあり、そこから数挺の機銃による銃撃がおこなわれました。車輌正面には大口径の主砲を搭載しています。


「エンジンがあり、履帯があり、装甲板に覆われ、大口径の主砲と小銃で武装する」というこの近代戦車のスタイルは、21世紀の現在でも変わる事がありません。


さて、そんな近代戦車の原型が、実は15世紀の中世真っ只中のヨーロッパで開発されていた、と聞いたら、皆さんはびっくりするでしょう。


それがあったんです。しかも実戦に大量配備され、無敵の戦果を叩き出していました。

その名は「ワゴンブルク」、または「ウォーワゴン」とも呼ばれていました。


このワゴンブルクという兵器が活躍したのは、1419年から1434年にかけてチェコで起きた、フス戦争と呼ばれる時代です。


当時はまだエンジンや蒸気機関などの動力機械はなかったので、移動は馬の力を使っていました。

馬に牽引させる荷馬車が原型となっていまして、これを戦闘用に改造したのがウォーワゴンです。

ただの荷馬車では強度がないので、両側面を分厚い木製の装甲板に換装して防御力を高めました。
また、開閉式の天井板には銃眼があり、それを垂直に立てて城壁のように展開し、荷馬車の内部から小銃やクロスボウで射撃をおこなうことができました。
荷車の後背部には、大口径の火砲を装備することもできました。



やや強引な言い方をすれば、動力源や履帯を除けばほぼ現代の戦車と変わらない機能を備えていた兵器、と言うこともできます。


その運用方法としては、まず任意の場所まで馬で牽引し、目的の場所に着くと馬から切り離します。
その後は人力で位置を調整し、数台から数十台を横並びにし、車輪同士を鎖で連結して固定します。
すると、そこには簡易的ではあるものの、強固な要塞が構築されるのです。

時にはその連結を円形や方形にし、四方からの攻撃に備える鉄壁の防御施設としても運用されました。
これが「ワゴンブルク(荷馬車の要塞)」と呼ばれたものでした。


この点は現代の戦車とは運用方法が違いますが、それは敵対兵科の違いによるものです。

現代とは違い、15世紀の戦場の主力は騎兵でした。
チェコの土地を戦場とする野戦においては、騎馬での突撃や、下馬しての肉弾戦が主な決戦方法だったのです。

騎馬の突撃は、歩兵や非武装の人間相手には多大な効果を発揮しましたが、しかしまさか、城や要塞の城壁に向かって突撃する者はいません。
ですがこのワゴンブルクは、本来野戦になるはずだった戦場に突如として城壁を出現させ、騎士たちの常識を打ち砕いたのです。

この時代、すでに火薬を使用した大砲や、手持ち式の原始的な小銃は開発されており、実戦にも投入されていました。
しかし、それらは主に攻城戦において使用されるものだというのが当時の常識であり、野戦のまっただ中での火砲の使用など、それまで前例のないことでした。

もし野戦で大砲を撃つ場合、大砲の装填と発射には時間がかかりますし、砲身を冷却させるために連射もできず、もたもたしているうちに砲手が攻撃されてしまいます。
なので、防御策などで囲ったり、大砲を高台に設置したりしないとまともに攻撃ができませんでした。

ウォーワゴンとワゴンブルク戦法では、それらの不利な点をカバーし、野戦でも安全に、迅速に砲撃することを可能としたのです。


ワゴンブルクからの砲撃は、それ自体による損害もさることながら、発砲音や着弾の音に相手の馬が怯え、騎馬隊の統率が乱れるという事態も引き起こしました。
そうなると、突撃も機動力も効果を発揮できなくなってしまいます。

騎馬隊の突撃や機動力はワゴンブルクの城壁と轟音によって無力化され、要塞から放たれる砲弾やクロスボウの射撃で、攻め手側は一方的に大損害をうけるという仕組みが出来上がっていたのです。

時代は全然違いますが、日本の戦国時代に例えると、墨俣の一夜城と長篠の戦いを同時に展開するようなスーパー戦術を、その100年以上も前に成功させていたということになります。


早すぎた近代戦術

中世の騎士道精神に則った戦いをする貴族の部隊は、このワゴンブルク戦法の前に幾度も敗北を重ねて行ったのですが、彼らの敗因は「勝ち方へのこだわり」にもありました。

戦場では、相手の貴族は生け捕りにするというのが基本的な考えだったのです。
戦局で負けたとしても、数名の捕虜さえ手に入れていれば経済的な勝利となりました。

それらの捕虜を身代金と交換する、というのが彼らの収入源でしたので、例え勝ったとしても、相手の貴族を殺害することは戦後のお楽しみを台無しにすることと同義でした。


しかしワゴンブルク戦法においては、その城壁に立ち向かうことは死を意味しました。
相手が貴族であろうが一般人であろうが、クロスボウと砲弾によって彼らの命は奪われていったのです。
敵を殲滅することに特化したのがワゴンブルク戦法というものであり、身代金などは彼らの目的ではなかったのです。

フス戦争のことを「中世を終わらせた戦争」と評する歴史家もいるほどに、この戦術は画期的なものでした。


ただし。
このワゴンブルク戦法は、「勝つ」ことはできても、勝ったあとの統治には全く役に立ちませんでした。

それどころか、維持費や建造費などのコスパが非常に悪いものだったのです。(ワゴン一台につき、馬が4〜8頭必要でした。その飼料だけでもかなりの予算が必要になります。)
相手貴族からの身代金もないため、収入源は戦闘による掠奪に頼らざるを得ませんでした。


ワゴンブルクは無敵の戦果を誇る一方で、その維持管理費を賄うためには膨大な予算が必要となり、そのためには常に戦い続け、そして勝ち続けなくてはならないという、ある意味本末転倒の兵器でもあったのです。





今回の「早すぎた近代戦車と近代戦術」のまとめとしては、

・ワゴンブルク戦法の発想は無敵であったが、運用と維持管理のコストが高く、それを捻出するための社会構造ができていなかった。

・そのため、常に掠奪とセットでの運用が必須となり、戦闘の長期化と国土の荒廃を招いた。

・ゆえに、ウォーワゴンの登場と運用は、時代が早すぎたということが言えるのではないか。

というところです。


さてさて。
このワゴンブルク戦法を発明し、貴族の騎馬隊を無意味なものにするという戦術に発展させたのは、一体どんな人だったのでしょうか?
また、これらのワゴンを操って戦っていたのはどんな人々だったのでしょうか?



次回「早すぎた民主主義共産国家」にて、その人物を紹介いたします。

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